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(そら)の羽根 〜(はかなきもの)〜 3章
ephemeral
2003年3月
Snowflakes


部屋の中に入ると、暖かな空気とコーヒーの香が秀明を包み込んだ。
「うぉっ、あったけぇ」
身体に張りついていた冷気が、みるみる部屋の暖房の熱に暖められていった。
美雨は雪に濡れた秀明のダウンジャケットの水気をさっと拭いて、壁のフックに掛けた。
「どうぞ、そこの椅子に掛けて待っていて。すぐに出来上がるから」
使い込まれた木製のテーブルと対になった椅子のひとつを薦めると、一度寝室になっているらしい奥の部屋へ消え、白いバスタオルを手に戻ってきた。
秀明の首筋をふわっとしたタオルの感触がくすぐる。
「髪の毛拭かないと。濡れたままだと風邪引くから」
そう言い置いて、美雨はキッチンへ消えた。
髪の毛についた雪が溶けて、滴が額や首筋に流れ落ちた。
秀明はバスタオルですっぽり頭を包み込むと、両手でがしがしと濡れた髪を拭いた。
キッチンからは正確なリズムを刻む包丁の音や、ジュッと何かを焼く音がしていた。
テーブルの上には飲み掛けのコーヒーカップ、使い込んだ一眼レフカメラ、四つ切りに引き伸ばされた写真が何枚かと、雑誌が積まれていた。
雑誌は写真の専門誌で、背表紙の年代を見ていくと、新しいものはなく、どれも何年か前のものであるのがわかった。
上から一冊ずつ順に目で追っていっていた秀明は、あっと思って中の一冊を少しずらし、タイトルを見た。これって!
「さあ、出来たわよぉ」
と言いながら、キッチンからトレイに料理を載せた、美雨が姿を現した。
秀明は慌てて雑誌の山を元に戻した。
「どうかした?」
「いや、別に、何でもないです?」
「なにか……、まあいいわね、そんなことよりお待ちどうさま」
秀明の前にトレイが置かれる。
大きなどんぶりには、ふわふわ半熟に仕上げられた卵、その卵が覆っている下には白いご飯。
横に置かれた小鍋には熱々の湯気が立った具沢山のコンソメスープだった。
美雨はさっとスープをどんぶりに注ぎ込んだ。とろとろの半熟卵とスープがどんぶりの中で溶け合う。
「さ、どうぞ」
添えられたスプーンで、サクサクと卵とご飯を崩しながら、スープと一緒に口の中に流し込む。
「うまい!」
気持ち良いくらいの食べっぷりで、みるみる平らげていった。
美雨は秀明が美味しそうに食べる様子を、黙って楽し気に見ていた。
食べ終わってから、何も言わずに黙々と平らげた自分が恥ずかしい気がして、それでもはにかんだようにごちそうさまでした、と言って丁寧に頭を下げた秀明だった。
「美味しそうに食べるのね。きれいな食べ方だし」
「だってほんと美味しかったから。でも、食べ方がきれいかなんて意識して食べたことないなぁ」
「それはそうよね」
どうでもいいことを言ってしまったと苦笑した。

美雨がトレイを片づけて戻って来ると、カメラを手に取って、熱心に見ている秀明がいた。
カメラは相当使い込んだものらしく、ところどころに小さなキズもあった。
細かなキズに混じって、何かアルファベットの文字が彫られている。
秀明は呟くようにその文字を一音ずつ区切って読み上げた。

To miu Y・HISHINUMA

「ミウ、って?」
秀明は問い掛けるように美雨を見た。
美雨は穏やかな視線を返すと、
「ミウというのは私の名前よ」
と答え、メモに美雨と書いて秀明に見せた。
「美雨、さんっていうんだ。さっきからお互い名前も知らずに話してたんだな、俺たちって。俺、あ、僕は」
「滝沢秀明くんでしょ。知ってるわ。タッキーが来るって朝から皆騒いでたもの」
照れ隠しなのか、秀明はカメラを構えると、ファインダー越しに美雨を見た。
ずっしりと重いカメラのボディを支える手は、思ったより大きかった。
すっと伸びた指先は、どの指もきちんと爪が切り揃えられていたし、白い手の甲には血管が浮き出て見えた。
しっかりとした男の手でありながら、肉体労働をする手とは完全に趣を異にする手だった。
変わらず穏やかな笑みを浮かべている美雨だったが、心は遠いどこかを見ているようでもあった。
「菱沼って、このカメラ、もしかしてあの写真を撮った人の?いや違うか、to miu、美雨さんに贈ったものなんだね」
美雨はレンズの向う側にいる秀明を見た。秀明はカメラを構えたまま動かなかった。
「いいえ、貰ったものじゃないわ。預かった、そうね預かったものなのよ、彼、祐介さんからね」
秀明は構えていたカメラを膝の上に降ろして、黙ったまま美雨を見た。
どうしてなんだろう。いまの美雨は、あの泣いていた時の彼女以上に儚くて、触れると壊れてしまいそうだった。
瞳がゆらゆらと濡れているように見えた。
涙が零れるのではないかと思った。
しかし、美雨は涙を見せることはなかった。
優しい笑顔を浮かべたまま言った。
「雪も止んだようよ、滝沢君。もう部屋に戻ったほうがよくない?」

美雨はついいまし方まで秀明が座っていた椅子を見ていた。
不思議な感覚だった。
あの時、凍りついた美雨の心に飛び込んできた少年の笑顔。
遠い過去が甦ってくるのだった。




店の扉に付けられた呼び鈴が大きく揺れて、派手な音を立てる。
入って来たのは常連客の一人、菱沼祐介だった。
重そうなカメラ機材を肩に、他の常連客達と気軽に言葉を交しながら、一番奥の席まで歩いてゆき、どっかりと腰を下ろした。
洋食屋を営むこの店の常連客の多くは、店のオーナーでありシェフでもあるおやっさん―――親しみを込めて皆こう呼ぶ―――の登山仲間で、菱沼のようなカメラマンは珍しかった。
「菱沼さん、いらっしゃい!しばらく振りですね」
美雨は水の入ったグラスをテーブルの上に置いた。
「やあ、美雨ちゃん、君はいつも楽しそうでいいね」
「ありがとうございます。ていうか私、悩みがない人間みたいに聞えますけど」
「悩み事、あるの?」
聞かれて美雨は首を傾けた。
「そういえば、ない」
「だろう」
菱沼は日に焼けた顔をほころばせた。
「うぅ、反論できない。できないけど、悩みはなくても夢はあるんですよ、これでも」
「夢?聞きたいな美雨ちゃんの夢ってやつ」
「それはね、いつか自分の作った料理を食べたお客さんが、美味しい、幸せだなぁって思ってくれて、そんな顔を見ることが出来たらいいな、ってことなんです」
もう菱沼は笑っていなかった。
美雨は話したことを後悔した。
お店の下働きで、まだ本格的に料理を作らせてもらったこともない自分なのに。
菱沼は真顔で言った。
「叶うよ、きっと」

菱沼はプロの写真家として、撮影旅行で東京を離れることが多かった。
戻ると真っ先におやっさんの洋食屋に顔を出す。
祐介と美雨の二人は、いつしかお互いの存在を必要とする関係になっていた。
会わない時も美雨の心のどこかに祐介がいた。
祐介はよく撮影で行った土地の話を聞かせてくれた。
北にあるN市には、サンピラーの撮影の為、何度も訪れていた。
サンピラーとは、太陽が空気中のダイヤモンドダストに反射して、柱状に輝いて見える現象をいう。
美雨も徐々に、写真に興味を持つようになっていた。

美雨はその日一日、祐介の部屋で過ごした。
明日になればまた、長い撮影旅行に出掛けてしまうのだ。
祐介はいつも持ち歩いているカメラバックを開けると、中から一眼レフカメラを取り出し、美雨に差し出した。
「これだけど、貰ってくれないかな。写真やってみたいって言ってたろう」
「え、だってそのカメラは、祐介のお守りみたいなものでしょ。とっても大切にしているって言ってたよね」
前に話して聞かせてくれたことがある。
祐介にとっては、大好きな写真で飯が食えるようになって買った初めてのカメラ、だった。
使うことのなくなった今でも、撮影にはいつもお守り代わりに持ち歩いているのだった。
「だから美雨に貰って欲しいんだ」
「貰えないわ、こんな大事なもの」
祐介が口を開こうとした時、
「わかったわ、帰ってくるまで、大切に預かってる。いいでしょ」
そう言うと美雨は、包み込むようにそっとカメラを受け取った。
二人はキスをした。
長い別れになる。
長い長いキスをした。

祐介が行方不明だと知らせてくれたのは、おやっさんだった。
ちょうど祐介が山に入った頃、おやっさんの山仲間も同じ山に入っていたのだ。
山の天候は変わりやすい。
一瞬にして表情を変える。
祐介は下山予定を過ぎても戻らなかった。
願いが諦めに変わっていく、周りのそんな空気が美雨に伝わってきた。
美雨は待ち続けた。
待ちながら、働くことに没頭した。
店での美雨は変わらず笑顔の絶えない人であり続けた。
一日一日が重かった。
いや軽過ぎたのかもしれない。
戻ると言っていた日はとうに過ぎていた。
捜索もすでに打ち切られていた。
おやっさんも、祐介の友人でもある常連客達も、いつもと変わらない態度で美雨に接してくれた。
それが彼らの気遣いであるのを、痛いほど感じていた。
悲しいのは美雨だけではない。
しかし、美雨の中に悲しいという感覚はまったくなかった。
時間だけが日いちにちと過ぎていくだけだった。

櫻並木は満開の頃を過ぎ、いっせいに花びらを散らしてしていた。
美雨は昔読んだ話を思い出した。
草木染めをする染色家が雑誌で語っていたのだ。
櫻を染色に使う時、色づいた花びらを使うのではなく、樹皮を用いるのだという。
櫻は花の頃、木全体が紅に染まる。薄紅に染まる花びらは、全身全霊を掛けて咲く木のほんの一部でしかない。
この話を読んだ時、美雨は櫻が恐いような気がした。
そこまでの思いとは、どんなものなのか。
花びらが舞い散る中、美雨は歩いた。
祐介を想った。
美雨の心も身体も祐介を想っていた。
狂うほどに恋しいといっていた。
けれど想いは涙となって散ることはなかった。
櫻の花の下、憑かれたように美雨は歩き続けるだけだった。

春を過ぎる頃、美雨はおやっさんの店を辞め、別の道を歩き出していた。
本格的に料理の勉強を始める為、調理の専門学校へ通うことにしたのだ。
学校とバイトと家、この三ケ所が美雨の日常のすべてだった。
何の楽しみも必要としなかった。
その日はバイトもなく、疲れた体をソファーに投出し、何を観るというでもなく、リモコンでテレビのチャンネルを変えていった。
美雨の手が止まった。
画面の中には、顔をくしゃくしゃにして、弾けるように笑う少年がいた。
黒目がちな瞳に掛かるやや長めの前髪、横の髪は顔の輪郭に沿って長く顎のあたりまで伸びている。
後ろは肩先で外側に少し跳ねていた。
スーツ姿の男の横で、司会のサブを務めているようだったが、喋りの途中言葉をカンでしまったようだった。
緊張からか白い肌が上気していく。
上に身に纏うダボッとした黒いノースリから覗く肩も、二の腕も華奢で、少女を思わせないでもなかった。
しかし、少年が見せていたのは、大人の男になる前の未分化な少年期における、刹那の輝き、繊細で儚い輝きだったのかもしれない。
少年はくったくない笑顔で笑った。
笑うとエクボが出来た。
美雨の手に何かが触れた。
見るとそれは涙だった。
美雨の中で凍りついていた悲しみが溶け出した。
しばらく涙の流れるままにしていた。
少年の名は、タッキー、滝沢秀明といった。




昨夜の雪が嘘のような、眩しく晴れ渡る朝だった。
朝食が運ばれてくるのを待つ間、秀明はティルームの自分の席で、戸口のほうばかり気にして見ていた。
O氏とI子の会話が耳を擦り抜けていく。
入口には背をこちらに向けて立つO君の姿があった。
その向うに見えるのは美雨だった。
真っ白な制服に身を包み、髪もきっちりと後ろで纏められていた。
プロとしての意志を持った、自信に満ちた顔をしていた。
二人が何を話しているのかは聞えてこない。
O君の笑い声がして、美雨も彼を見て笑った。
秀明は心が疼くのを感じた。
そして、自分の中にそんな感情が起きたことに驚いた。
スープ皿が置かれた。
立ち上る湯気の向うに美雨がおぼろになっていった。
美雨は秀明を見た。
ちょうどスープが運ばれたところだった。
伏し目勝ちな感じでスプーンを口元まで持っていくと、ふうっと熱いのを冷ますように一息吹いてから飲んだ。
昔から変わらないふっくらとした口びるが、濡れて赤く色を刺したようだった。
秀明は顔を上げた。
しかし美雨の姿はもうなかった。
    

―つづく―




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