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(そら)の羽根 〜(はかなきもの)〜 2章
ephemeral
2003年3月
Snowflakes


別棟の食事は、別棟寄りにある本館ティールームの、丸テーブルに設えることになっていた。
美雨と他の厨房スタッフは、手早く料理の仕上げに入り、慣れた手さばきで盛り付けをおこなっていった。
出来上がったものを、サービススタッフの女の子二人が運ぶことになるわけだが、厨房に戻って来る度に、興奮気味に秀明の様子を報告するのだった。
こんなところを冴子に見られたら、クールな叱責が飛ぶに違いなかった。
ただ、さすがに彼女達も秀明の前では、そんなはしゃいだ素振りも見せずに、プロとしての仕事に徹しているようではあったが。




秀明達は各自自室で旅行の荷解きを終えると、一人二人とティルームに集まってきた。
席に付いたのは結局秀明が最後になった。
不案内な建物の中で迷った為だ。
頃合いを見計らったかのように、テーブルに料理が並べられていく。
「うまそう!」
目の前に置かれたタラバ蟹を見て、秀明は嬉しそうに声を上げた。
「蟹は話したくない相手と一緒に食うに限るね」
顔の半分は髭で覆われている、恰幅のいいカメラマンY氏が言う。
「美味しいものを食べるのに、わざわざ話したくもない相手と食べるわけ?」
ヘアメイクのI子は呆れたという顔をした。
「そうさ、蟹を食べる時ってのは、何故か無口になるもんだ。口説き落す相手とじゃ、口を食べる為に使うべきか、相手の女性を口説くのに使うべきか悩むことになるだろ」
「それでどっちか選ぶ状況に陥ったら、Yさんとしてはどうするの?」
すかさずI子が聞いた。
「もちろん、俺としては蟹を選ぶさ」
「あら、意外な答えね。てっきり魅力的な彼女のほうかと思ったけど」
「そっちは蟹を食べてからゆっくり時間を掛けて頂くさ。なぁ、タッキー」
Y氏は平然と答える。
二人の会話を面白そうに聞いていた秀明だったが、自分に話を振られて、困ったように笑顔を返すしかなかった。
この二人いつもこんな感じなのだ。
「まあまあ、その話はひとまず置いといて、せっかくの料理を食べましょうよ。さっきから腹減って、腹減って我慢の限界ですよぉ、僕」
まあまあが口癖のO君が間に割って入る。
「それならここで、我慢の限界に挑戦してみるというのはどうだねO君」
Y氏はククッ、と笑いを抑えながら言った。
「ご馳走を前にしてそりゃないっすよ」
O君の声が半ばひっくり返っていた。
テーブルにいた他のスタッフからも、一斉に笑いが巻き起る。
料理はどれも美味しかった。
蟹もタラバに限らず、ズワイ、花咲、毛蟹と盛り付けられていたし、甘海老は口の中でぷりぷりの触感でとろけた。
素材そのままを出すのではなく、素材の持ち味を殺さないよう活かしながら、更にシェフの創ることへの拘りも窺わせる料理だった。
「ところでここのシェフは女性らしいな」
Y氏が言った。
髭にところどころ蟹の身が付いたままだった。
彼は性格そのままに、食べ方も豪快らしい。
「そうらしいですね。って言うかぁ、女性ばかりらしいですけど、ここのホテル」
そう言ったO君は、何故かとても嬉しそうだった。
秀明はさっき会った女の人の姿を思い浮かべた。
そういえばあの人、あれって厨房の人の格好だったよな。




秀明はベットの上に仰向けに寝転んでいた。
食後、撮影クルーと明日の打合せをしながら、少しの間談笑したが、それぞれ仕事の準備もあり、早々に部屋へ退散することになったのだ。
本を読むわけでも、ゲームをやるわけでもなし、少し時間を持て余しているところだった。
こんな時、翼とかJr.のメンバーでもいればな、と思ってみたところで実際は一人なわけだし、寝るにも早いような気がした。
ぼぉっとしているのも悪くない。
嫌いではなかった。
素足の裏にやわらかく触れてくる、シーツのひんやりした感触が心地良かった。
その感触を無意識に楽しむかのように足を前後させたり、くるくると輪を書いてみたりした。
東京からN市まで、移動には結構な時間を要したから、それだけで知らず知らずの内に緊張と疲労が身体に溜まっていたのだろう。
解放されたように、身体から力が抜けていく感じだった。

それにしてもさっきは驚いたな、と秀明は思った。
まさか人がいるとは思わなかったし、泣いている場面に出くわすとは思いもしなかった。
秀明は絶対に人に涙を見せたくはなかった。
泣くことはある。
でも、涙は人に見せるものではないと思っていた。
反面、自分の涙や感情を、人前で素直に出せる人間が羨ましいという気持ちもあった。
羨ましいと思ったからといって、自分がそんなふうになれないのもわかっていた。
自分がそんなだから、あの時も涙に気づかない振りをしたのだ。
よかったのだろうか、あれで。
男と女では違うかもしれない。
そもそも彼女はどうして泣いていたのだろう。
部屋に入っていった時、彼女はじっと壁に飾られた写真を見ていた。
それが気になった。

実をいうと秀明は、この部屋に戻る前に、あの場所へ再び行ってみたのだった。
自分もカメラをやっているから、写真を見てみたいというのもあった。
今度は誰もいなかった。
秀明は額に収められた写真の一枚一枚を丹念に見て歩いた。
人物を写したものはなく、どれも風景を扱ったものばかりだった。
雪景色がほとんどだった。
山の写真も多い。
額の下にタイトルと撮影者の名前が書かれたプレートがある。
撮影者はどれも菱沼祐介となっていた。
「静かだなぁ」
声に出して呟いた。
いくら周りに人家がないからといって、静か過ぎやしないだろうか。
不安になるくらいの静けさだった。
秀明は勢いをつけてベットから起き上がる。
窓のカーテンの隙間から外を覗いてみた。
雪?
カーテンをさっと開け放つ。
雪が降っていた。
見ていると細かな雪がひっきりなしに降っている。
積もった雪はホテルの照明に照らされ、キラキラと反射して見えた。
何かに急かされでもするように、ダウンを着込み、身支度もそこそこに秀明は外に飛び出した。
予想以上の寒さに一瞬身を縮めたが、しばらくすると寒さに慣れたのか、それほど感じなくなっていた。
ポケットに手を突っ込んだまま、ずんずん雪の中を歩いていく。
降る雪も、積もったばかりの雪も、羽根のように軽かった。




部屋には入れ立てのコーヒーの香が漂っていた。
忙しい一日だった、と美雨は思った。
が、不思議と疲労感はなかった。
美雨の部屋は別棟の左隅の位置にある。
元々は、当直のホテルスタッフが寝泊まりする為の部屋だったものを、美雨が住まいとして利用していた。
美雨以外のスタッフは皆、N市で生まれ育った人間で市内に家があるし、当直の時は本館にあるスタッフルームの仮眠室を使っていた。
東京から来て、ほんの仮住まいの予定がそのまま住みつく結果となっていた。
別棟の一角にあるとはいえ、ホテルから出入りすることは出来ない。
部屋には独立して玄関がある。
一旦表に出て、本館裏の通用口から出入りすることになっていた。
一見不便なようでいて、仕事とプライベートの距離を保つ上でも、美雨にとっては有り難かった。

涙、気づかれただろうな。
美雨は夕方の出来事を思い浮かべた。
会いたかった人に会えた。
でも、会いたい人に会うことはない。
会いたい人、美雨はテーブルの上に置かれた写真を手に取った。
右手にあったコーヒーカップを口元に近づけようとしてふと手を止めた。
なんて静かな夜だろう。
音がどこかに吸い込まれていくような、こんな静寂を生み出すのはきっと……
美雨は窓に掛かる厚手のカーテンをゆっくり開いた。
音もなく雪が降っていた。
美雨はそのまま身動きもせず、外の一点を凝視した。
ポケットに手を突っ込んだまま、宙を見上げている秀明がいた。




真っ暗な夜の下、宙にふっと白いものが現れては、自分に向かって落ちてくる。
繰り返し、繰り返し、現れては落ちてくる。
尽きることはなかった。
秀明は何も考えずに、ただ雪が落ちてくるのを黙って見ていた。
そんな秀明の傍らで美雨は、人が近づいて来たのさえ気づかず宙を見上げる、彼の美しい横顔を見ていた。
と、秀明の顔が美雨に向けられた。
目が大きく見開かれる。
ついで驚きの顔から、悪戯を見つかった子供みたいな、照れた笑い顔に変わった。
その変化が美雨には面白く、かわいく思えた。
それより笑いを誘ったのは、頭の天辺も眉も雪で真っ白になっている彼の姿だった。
思わず吹き出しそうになりながら言った。
「真っ白よ髪の毛、それに眉毛も。おじいちゃんみたい」
「おじいちゃん?ん、白いって?ああ、そうか」
自分でもやっと気づいたようだった。
犬がよくやるように、首を左右に激しく2,3度振って雪を振り落とそうとした。
美雨は笑いながら、肩先に滑り落ちた雪を手で払ってやった。
「なんか静かだなって思って外見たら雪で」
「そうなのよね、変に静かだなって思うと、決まって雪が降っているの。私も最初こっちに来た時は驚いたわ」
「この土地の人じゃないんだ」
二人が話す間も、雪は降り積もっていく。
「前は東京にいたの。でも、このホテルでシェフをすることになったもので」
秀明は夕食の時Y氏が言っていた言葉を思い出した。
「女性のシェフってもしかして?」
「厨房のスタッフは私も含めて、皆女よ」
目の前に立つ美雨を秀明はじっと注視した。

どちらかといえば華奢な印象だった。
夕刻のことが思い出された。
涙を流す姿はどこか心もとなくて、手を差し伸べてあげたいような、そんな気にさせた。
実際差し出したのはティッシュの箱だったわけだが。
二人の間に沈黙の時間が広がっていった。
もとより人見知りする秀明である。
会ったばかりの、何の接点もない相手と普通に会話していることのほうが、普通ではなかった。
きゅう〜ん、と秀明のお腹の虫がか細く鳴いた。
二人は顔を見合わせる。
緊張の糸が一気に解けていった。
「お腹、空いたの?」
「あれぇ、なんかそうみたいだな」
秀明はいかにも困ったような顔で苦笑した。
「腹一杯食ったはずなんだけどなぁ」
「もしよかったら、軽い夜食でも作りましょうか?」
「いえいえ、とんでもないです。こんな時間に申し訳ないですから」
何故か急に丁寧な言葉遣いになってしまうところが面白かった。
「うち、すぐそこだし、ほんと簡単なものだけど遠慮なくどうぞ」
美雨は半身を反らして、消えかかりそうな足跡が点々と続く先を指差した。
窓から明かりが漏れていた。
そこが宿泊している別棟の一角であることに気づいた秀明は、
「あそこってホテルだけど」
と言った。
「そうよ、でも、私の住まいもあるの」
美雨は秀明の答えを待たずに歩き出した。

     

―つづく―




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