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(そら)の羽根 〜(はかなきもの)〜 最終章
ephemeral
2003年3月
Snowflakes


撮影を終えた秀明達は車でA川市まで移動し、A川市から飛行機に乗り換えて東京へ戻った。
美雨と秀明は言葉を交すことも、顔を合わせることもなかった。
ホテルはいつもと変わりない日常に戻っていった。
繰返される日常の中で、美雨と秀明の人生が交錯した一夜の出来事も、遠い記憶へと変わっていくことだろう。
コーヒーを入れようと、キッチンでお湯を沸かし始めた美雨は、何気なく冷蔵庫を開けた。
吹雪く日もあるから、少し買物をしておく必要がある。
半開きのまま中をチェックしていた美雨は、あっ!を小さく声を上げた。
昨日の朝、不思議な少年と出会い持ち帰った卵は、冷蔵庫の卵を置くスペースの一番端に他の卵と一緒に並べてあった、はずだった。
昨日、と美雨は思った。
秀明が食べたのは、まさしくその持ち帰った卵だったのだ。
慌ただしさの中で、少年のことも卵のことも、この一瞬まで、すっかり頭の中から消し飛んでいた。
でも、あれは普通の卵でしかなかったし、割った時に卵黄も新鮮なものであるのを、無意識に確認している。
結局あの卵はなんだったのだろう。
附に落ちないながらも、お湯が沸騰した為、コーヒーを落とし始めた。
ペーパーの中のコーヒーが細かく泡立っていく。
美雨はぼうっとした面持で、その様子を眺めていた。




“ミウ”と呼ぶ声が聞えた。
美雨はえっというようにTV画面に目を凝らす。
秀明がレギュラー出演している番組の放送中だった。
無言でモニターを見る顔が小さく映っているだけだ。
空耳に違いない、美雨は思った。
秀明のアップが画面に大きく映し出された。
“ミウ”
今度ははっきりと聞えた。
秀明の声だった。
優しく呼び掛けるような声だった。
しかし、秀明は先輩の言葉に、満面の笑みが浮べて笑っているだけだった。

さっきから翼が何か言いたそうにしていることに、秀明は気づいていた。
翼の手はゲームのリモコンを忙しく操っている。
「なに?」
秀明は翼の背中に向かって聞いた。
「なにって、なにが?」
背を向けたまま翼が答える。
「だから何か言いたいんじゃないかなってこと」
「言いたいっていうかさぁ、滝沢、最近なんか違うっていうのか、つまりさ変なんだよ」
最近の秀明の様子が気にはなっていた翼だったが、人に弱みを見せたり、泣き言を言うのが嫌いな奴だとわかっていたから、言い出すきっかけがなかったのだ。
「変?そりゃ俺は変かもしんないですけど、そんなはっきり言われてもなぁ」
「いや、ちげぇよ。なんだか心ここにあらずでさ。それに時々、滝沢っぽくないんだよ。うまく言えないけど」
翼は手を止め、秀明のほうを振り返った。
「なんだいそれ」
秀明は笑いながら言った。
「俺は俺だよ、いつも」
「ならいいんだ。とにかく明日もオフだし、ゆっくり休めよ」
翼は再びゲームを始めた。
俺は俺、そうには違いない。だが秀明の中に在り続けた思いが、衝動に変わろうとしていた。




風もなく良く晴れた穏やかな朝だった。
天気は良いが、気温はマイナス20度まで下がっている。
きりりと刺すような寒さだった。
カメラを持って出た美雨は、歩いて行く先に光の柱が立ち上るのを見て一度シャッターを切ると、そのまま駈け出した。
地上と空を輝く光が繋いでいる。
「滝沢君?」
光のこちら側に立っている人の姿に驚いて、美雨は立ち止った。
「どうしてこんな所に、滝沢君がいるの?」
美雨は信じられないといった感じで、ゆっくりと秀明に近づいていった。
秀明は顔に、慈愛にも似た静かな笑みを浮かべて、美雨を見たまま言った。
「会いに来たんだ、君に」
美雨はすぐ目の前に立つ秀明を不思議そうに見た。
「美雨」
秀明が美雨の名を呼んだ。
美雨を呼ぶ声は秀明のものだったが、呼んでいるのは秀明でないとわかった。
何度も耳にしたこの呼び方。

「祐介さん、祐介なの?」
美雨の声が震えた。
秀明の中の祐介がゆっくりと頷いた。
「会いたかった。会いたくて……、待っていたのずっと。でも、会えなかった。もう、会えないと……思った」
消え入りそうな言葉でそう告げる美雨を、祐介は抱き締めた。
二人の唇がそっと触れた。
冷たい感触だった。
長い時を埋めるように、二人は抱き合い、互いの唇と唇を強く求めた。
徐々に唇を通して相手の温もりが伝わってきた。
キスを交しながら、美雨は動かし難い現実に気づいてしまった。
いま触れているこの唇の温もりは、祐介のものではないということに。
どんなに心でお互いを求め合っても、二人はもう触れ合うことは決してないのだ。

祐介にもそれはわかっていた。
彼は自分が去る時が来たことを悟った。
「もう忘れていいんだよ」
「え?」
「もう、俺のことは忘れていいんだ」
秀明の中から淡い虹色の光が溶け出し、光の柱に吸い込まれていった。
太陽柱は大気の中に同化しようとしていた。
「嫌、行かないで!」
美雨は必死で消えゆく光りを追おうとした。
力強い腕が美雨を押し止めた。
秀明は美雨をしっかりと抱き締めた。
二人はしばらくの間抱き合ったまま、その場所に立ち尽くしていた。
顔を上げるとそこに、心配そうな表情で覗き込む、秀明の大きな瞳があった。
「大丈夫?」
低い声が耳元に響いた。
美雨は秀明から身体を離すと、力なく笑顔で頷いてみせた。

二人はどちらともなく、無言で歩き始めた。
「ありがとう」
美雨がぽつりと言った。
秀明は立ち止ると、両腕を思いきり上げて伸びをしながら、陽気な声で言った。
「ああ、腹減ったなぁ。なぁんか俺さ、気づいたらここに来てて、気づいたら美雨さんのこと抱き締めちゃったりしてんの。なんにも覚えていないんだよね。俺って一体どうしちゃったんだろう」
美雨にはその言葉が嘘だとわかっていた。
もう一度、「ありがとう」と言うと、前に立つ秀明を追い越しながら、明るく言った。
「滝沢君ていつもお腹空いてるみたいな感じね。なにか食べる?」
「おお、いいっすね」
秀明は嬉しそうに言うと美雨を追い越しながら聞いた。
「ところでさ、美雨さんてもしかして翼のファンだったりする?」
美雨はきょとんとした顔をした。
「翼くん?どうして?うん、確かに彼はかわいい性格してると思うわ、好きよ」
「やっぱそうなんだ。そうだよね、あいつかわいいとこある奴だからさ、俺も好きだもの」
言い方がちょっと拗ねたような感じだった。
「どうして急にそんなこと聞いたの?」
「え、ほら美雨さんとこのテーブルの上に、俺らの写真集があったじゃない」
「見たの?」
「いや、たまたま目に入っただけだよ」
秀明は慌てて説明する。
「ふ〜ん、でも、どうしてそれで翼くんのファンだと思ったのかしらね。もう一人いるじゃない」
美雨は面白そうに笑った。
「えっ、じゃあ俺?」
「どうかしらね」
美雨は笑いながら走り出した。
走りながら美雨は思っていた。
いまの君が大好きよ。
その一瞬、一瞬の君が、滝沢秀明のファンとして、同志として大好きよ。




「行くの?寂しくなるよ、美雨さんがいなくなると」
冴子が言った。
「冴子さん、またぁ。一泊したらちゃんと帰ってきます」
「ま、そうだけどね。それにしても私達って、よく同じ男に惚れるよね」
美雨は冴子を見た。
「菱川さんはここに来ると、よく東京にいる彼女のことを話してた。少しは嫉妬したかな。彼の撮る写真が好きだったからね。そして、彼のこともたぶん。美雨さんが働きたいって訪ねて来た時、すぐにわかったのよ、菱川さんの言ってた人だって」
「気づかなかった。私って。ん?よく、ってまさか」
「まあ、いいじゃない。今度は私も一緒に行くから」
クールな冴子が恥ずかしそうにしながら、美雨の肩を叩いた。

美雨は空を見上げた。
まだ春の訪れは先のことだ。
大きなぼたん雪が、ひらひらと落ちてくる。
風に煽られ宙に舞い、弧を描いては落ちてくる。
美雨は目を閉じた。
瞼の上に雪が羽根のようにふわりと落ちてきた。
忘れないよ、祐介。
忘れていいと言ったけど、忘れない。
瞼の雪は溶けて温かな滴とひとつになって、頬を流れ落ちていった。
目を開け美雨は真っ直ぐ前を見た。
しっかりと雪道を踏みしめながら、力強く歩き始めた。

秀明は唇を指でそっとなぞった。
自分がついた嘘を美雨は気づいていただろうと思った。
あの時、自分の中にいた祐介の想いを、秀明は痛いくらいに感じていた。
美雨を想う気持ち、伝えたい言葉も無数にあったに違いない。
ずっと側で美雨を見守っていきたい、祐介はそのことをどれほど強く願っていたか。
でも、菱沼祐介は自分に、美雨の心を繋ぎ止めようとはしなかった。
彼は手を放すことを選んだ。
秀明は空を見上げた。
満開に咲き誇る櫻の向うに、淡く青い空気が満ちていた。
櫻の木を風が通り抜けた。
差し出した手の指の間を、擦り抜けていく花びらが、辿る軌跡を目で追った。
「滝沢―――っ!行くぞ」
向うで翼が呼んだ。
俺は怖れない、秀明は心に強く思った。
風が身体を後ろへ押しやるように吹いた。
秀明は真っ直ぐ前を見据え、走り出した。

―完―




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