宙(そら)の羽根 〜(はかなきもの)〜 1章 ephemeral |
2003年3月 Snowflakes |
目前に広がるのは一面の純白、一面の雪野原。 まだ誰も足を踏み入れていない生まれたての銀世界だった。 美雨(みう)は手にしたカメラを構えるとシャッターを切った。 いまその一瞬が切取られ、フィルムに刻印されていく。 一歩一歩雪原を踏みしめるように先へ進みながら、無心に同じ動作を繰返した。 無音の世界にシャッターの音だけが正確に響いていく。 風が地表を走る。 煽られるように積もったばかりの雪が舞い上がる。 視界を遮られた美雨は、雪礫を避けるように顔を伏せ立ち止った。 地吹雪が収まった視界の先に人影があった。 目の上で切り揃えられた漆黒の髪、その下から覗く黒目がちな瞳がじっとこちらを見ていた。 小学生とおぼしき少年が、夜も明け切らない早朝の光の中に佇んでいる。 その驚きよりも違和感よりも、捉え難い衝撃が美雨の中にあった。 おぼろげな光が少年を包み込んでいる。 透き通る肌の白さと薄っすらと赤みのさした頬、丸みを帯びた口びるは紅に染まっていた。 自分が見ているのは人の子なのだろうか。 現実感が薄れていく。 少年の口びるが幽かに動いた気がした。 同時に、胸のあたりで何かを包み込むようにしていた両の手を、そのままゆっくりと美雨に向けて前に差し出した。 手の内に収められた物が虹色の光りを放っている。 引き寄せられるかのように美雨は歩き出した。 その途端、少年の姿はふいとかき消えた。 慌てて駆け寄ったがすでに姿はない。 切り立った崖の下に、冬木立が広がっているだけだった。 美雨は少年が立っていた場所に目をやった。 人が立った足跡すら残っていなかった。 代わりに浅く落ち窪んだ穴がひとつ、穴の真ん中には白い卵がひとつあった。 虹色に光る卵。 少年の両手の中にあったのは、この卵だったのか? やがて卵は手のひらの中で光るのを止めた。 美雨は持っていたタオルを広げると、丁寧に割れないようそっと卵を包んで、その場を後にした。 ◆ N市は人口3万人程の小さな町で、北の地にあっても厳冬期の寒さは群を抜いている。 冬の間、稀にサンピラーと呼ばれる天と地を繋ぐ光の柱、太陽柱が見られる町のひとつでもあった。 美雨が務めているのは、スキー場に程近い小さなホテルだった。 周りに人家などはなく、ホテルの建物だけがぽつんとある。 外観も内装も洋風のしゃれた作りで、女性客にも人気だった。 ホテルに戻り、朝食の準備の為身支度を整え、厨房に向かう。 美雨はここの厨房スタッフのトップとして働いていた。 東京のレストランを辞め、N市に来てから1年程になる。 途中スタッフルームの前を通ると、半ば空いたドアから歓声に似たざわめきが漏れてきた。 「どうかしたの?」 こんな早朝から珍しいことだと思って、中を覗き込んで聞いた。 ちょうど入口近くにいたサービススタッフのユイちゃんが、はしゃぎながら言った。 「あ、美雨さん、タッキーが来るの!タッキーよ!」 「えっ、タッキーって、あの?」 訳が判らず、人垣の輪の中心にいた冴子の顔を見た。 彼女は女性スタッフで構成されているこのホテルで、支配人を任されている人である。 「今日、別棟にある部屋を予約しているお客様がタッキーだってわかって、さっきからこの状態なのよ。もう大騒ぎ。いい加減騒ぎ過ぎよあなた達」 やれやれというようにいつもの冷静な口調で説明してくれた。 雑誌の撮影でタッキーと取材スタッフがこのホテルに今夜宿泊することになっているのだという。 「ほんとに?」 言ったきり言葉に詰まっている美雨を見て、冴子は悪戯っぽい目で言った。 「あらあら、なぁに、もしかして美雨さんまで、きゃあ!とか言うんじゃないでしょうねぇ」 「え、何言ってるんですか冴子さんたら。じゃ、私急ぐので失礼しますね」 顔が赤くなる前にその場を脱け出したけれど、冴子さんは感がいい人だからな、と思いながら美雨は呟いた。 「タッキー、滝沢君……か」 ◆ 小さな町の小さなホテルで、ちょっとした騒ぎを持って迎えられた秀明と取材スタッフ達はその日の夕刻に到着した。 待ちかねていたホテルスタッフらは、タッキーを一目見ようと、皆そわそわと仕事が手に付かない様子で落着きなく、支配人である冴子が注意する始末だった。 一般客の夕食準備と時間が重なった為、美雨は秀明を見に行くことはなかった。 内心の動揺を抑えるように、ひたすら調理することに専念した。 まさか秀明が食べる料理を自分が作ることになるとは、これまで思いもしないことだった。 別棟用に出すディナーは、蟹や甘海老など新鮮な魚介類をふんだんに使ったフレンチにした。 フレンチといっても和風テイストにして、よりさっぱりと食べ易い味付けに仕上げてある。 ここまでの旅の疲れと、早朝からという明日の仕事を考慮して、胃に負担が掛からないことを心掛けた。 もちろん、美味しく食べてもらえる料理、というのはいうまでもないことであった。 下ごしらえも含め一通りの準備を終えた美雨は、後を他のスタッフに任せ、少しの間休憩に入った。 本館と別棟を繋ぐ位置に喫煙ルームがある。 冴子によると、外国のちょっと豪奢な家庭のリビングルーム、というのがコンセプトだそうだ。 実際の用にはなっていないが、暖炉があり、ソファーにテーブル、書棚には洋書が並んでいる。 人の姿はなかった。 宿泊客の大半は、本館にある談話室のほうを利用している。 美雨は仕事の合間、時折ここを訪れた。 部屋に飾られている風景写真を見る為だった。 すべての作品は一人の写真家の手によるもので『菱沼祐介』それが写真家の名前であった。 一枚の写真の前に立つ。 雪に覆われた山肌、幾重にも山並みが続いていた。 美雨の心の奥底に沈んでいた記憶が甦る。 声が脳裏に響く。 彼の表情のひとつひとつが浮ぶ。 熱い思いが込み上げてくるのがわかった。 その時、カタっと音がして、背後に人の気配がした。 振り返った美雨は、思わず声を上げそうになるのをやっとのことで抑えた。 そこに立っていたのは滝沢秀明、その人だった。 見られた! 涙が頬を伝っていた。 動き出した感情を押し留めるには遅すぎた。 頭の中が完全に混乱しているのがわかった。 何か言葉をと思っても、喋るという行為自体忘れてしまったように立ち尽くしている自分がいる。 「出てますよ」 秀明は、美雨の様子に動ずることもなく、穏やかな表情で言った。 「え、何?」 やっとのことで聞き返す。涙のことだろうか。 「鼻……」 言いながら自分の鼻のあたりを指差し、テーブルに置かれたティッシュを、箱ごと美雨に差し出した。 鼻、鼻水!? 美雨は恥ずかしさに右手で鼻を覆うと、ティッシュをもう片方の手で抜き取り、秀明に背を向けて涙を拭った。 実際は鼻水が出ていたわけではなかった。 涙に気づかぬ振りをするためだったのかもしれない。 耳朶まで赤くなっていく。 自分が情けなかった。 よりによって秀明に見られるとは。 「あのぉ」 背中越しに秀明の遠慮がちな声がした。 落ち着きを取り戻した美雨は、秀明のほうへ向き直った。 その時初めてきちんと彼の姿を見ることが出来た。 綺麗な人、という表現は性別を越えたところにあると秀明を見てつくづく感じた。 しかし、自分を良く見せようとして何か取り繕っているわけでもない。 すくっと自然体でその場に立っているだけだ。 彼に清々しい空気を感じた。 美雨はやっと冷静に自分の立場に思い至った。 いまの自分は、お客さまを迎えるこのホテルのスタッフの一人であったはずだ。 軽く息を吸い込んで、仕事の顔に戻った。 「大変失礼致しました。何かご用でしょうか?」 そんな美雨の様子を見て、秀明は少しだけ微笑んだようだった。 「すいません。実はティルームに食事に行くところなんですけど、迷ったらしくて」 本館に続く別棟を増築した際、渡り廊下とこの部屋を作った為、入り組むことになり、初めての者にはわかりずらくなっていた。 ティルームへの行き方を説明すると、秀明はありがとうございますと笑顔で答え、立ち去った。 美雨はその後ろ姿を目で追った。 姿が見えなくなってしまってからもしばらく、虚空にその姿を追っていた。 これから秀明達が食べる、ディナーの用意が待っている。 美雨も足早に厨房へと向かった。 ―つづく―
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