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願い・・・ 第6章
whereabouts
2003年2月
有羽 作


  僕の中で一度決心していたことが再びぐらぐらと揺るぎ始めていた。
秀明を愛していた。
言葉にするとただの陳腐なフレーズでしかないけれど、言葉で言い尽くせない思いが胸の中に渦巻いていた。
時々その渦の中に引き込まれて溺れてしまいそうで怖くなるんだ。
だからって訳ではないけれど、やはりイギリスに行ってもう一度バレエをやりたいと思っていた。
彼に早く話をしなくてはいけないと考えていたのに・・・。

 誕生日の晩から僕は自分の身体の変調が気になっていた。
‘ひょっとして、赤ちゃんができたのかも・・・。’
自分でもこっそり調べたけれど、やっぱりきちんと診察してもらわなきゃいけない。
そして、予感は的中してしまった。
妊娠6週目だといわれた。
正直に言うと目の前が真っ暗になった。
僕の中に生きている秀明と僕の愛の結晶。
いつだったか夢の中でこっそりと願っていたかもしれない。
いつも僕だけを見つめてくれる優しい彼と、その横に寄り添う彼にそっくりの可愛い赤ちゃんを抱いている自分。
でもそれが今現実になると思いは違っていた。
やっぱり彼には話せないし、気づかれないようにしよう。

 毎日毎日考えていた。
新しく芽生えた命を殺してしまうなんてやっぱりできやしない。
これは運命かもしれない。
ましてやそれが愛する秀明の子供なのに。
そして、彼に内緒で社長に相談した。
「ゆうきがそこまで決心しているのなら、イギリスで産めばいい。子供を育てながらだって、バレリーナにはなれるよ。わたしにすべて任せてくれるのなら、知人に相談してみよう。」
社長はそう言ってくれた。
その言葉が僕を勇気付け、彼と離れて生きていく決心をさせてくれた。

 9月に入ったばかりのある朝、僕は思い切って彼にこういった。
「今日、仕事何時ごろ終わるの?」
「クランクアップが近くなっているから、夜中になってしまうかも・・・。何?」
「大事な話があるの。夜中になってもいいから、待っている。忙しいのに御免ね。」
「わかった。できるだけ早く帰ってくるよ。」
彼は僕の気持ちを察知しているかのように、いつになく真剣な面持ちになった。
なんて話を切り出そう、嘘はできるだけつきたくはない。
かといって真実を話すわけにも行かない。
真実を知ったのなら、優しい秀明は自分のことを犠牲にしてまで、僕とおなかの中の新しい命を守ろうとするに決まっている。
でもそれじゃあ、今迄と何も変わらない。
秀明には今よりももっともっと輝いていて欲しい。
だからこれ以上、彼の重荷になるのは嫌だった。
そして僕自身も自分の夢に向かって真っ直ぐに歩いていきたいという思いが強くなっていた。
悲しいことだけれど、僕たちはこれ以上一緒にはいられないということ。
愛し合っていても離れていかなければいけないということは明白だった。




 ゆうきに今朝、大事な話があるから早く帰ってきて欲しいといわれた。
俺は不思議なくらい落ち着いていた。
おかしな予感が俺をそうさせていた。
‘おかしな予感’イコール‘嫌な予感’てやつはいつも当たってしまう。悲しいことに・・・。
そして負けず嫌いで強がりな俺の性格が、打ちのめされてずたずたになっても泣いちゃいけないって突っ張っている。
なんかそんなところはゆうきとそっくりかもしれない。
俺たちふたりは、きっと似たもの同士なんだ。
だからこそ、ゆうきの痛ましさに目をつぶっていられなかった。
同情じゃない。彼女の痛みさえも俺には愛おしさなんだ。

 ロケ先でも、スタジオでも気分が晴れることはなかった。
なんの話かわからないのに、まるで死刑宣告を覚悟している囚人みたいだ。
まあ、ドラマのストーリーがコメディーじゃないのがせめてもの救いだ。
俺の演じているヒーローの涙が俺自身の心を浄化してくれた。
冴えない顔色の俺を気遣ってスタッフが早めに仕事を切り上げてくれた。

 家へ着いたのは11時少し前だった。
ゆうきはもう部屋着に着替えてリビングで待っていた。
「お疲れ様!先にシャワー浴びてきたら。それとも、おなかすいている?」
「おなかはすいていない。それより、大事な話があるって言ったよね。何の話?」
俺はソファーの横でスウェットに着替えながらそう言った。
「うん。ずうっと考えていたのだけれど、やっぱりバレエをやっていこうと思って。それで近いうちにイギリスへ行くことに決めたんだ。急にこんなこと言って面食らうかもしれないけれど、知り合いにイギリスのバレエ学校の関係者がいて来ないかって言われて・・・。まだそれほどブランクもないし、十代のうちにどうしても行きたいんだ。もう最後のチャンスかもしれない。」
ゆうきはゆっくりと言葉を選びながら、でもその言葉の端々からはゆるぎない決意を俺に向かって突き付けていた。
「もう、決定したって事だよね。それで、留学するのは1年くらい?」
「最低3年、いや、ロイヤル・バレエを目指すならもっとかかるかもしれない。」
そう言ったゆうきの言葉に俺は返す言葉を失っていた。
「御免ね。でも、秀明だって今が正念場でしょ。僕だって同じなんだ。だから今のまま、愛し合っているまま・・・さよならしようよ。」
ゆうきは言葉を詰まらせながら何とかそういい終えると深く溜息をついた。
「おい、さよならってなんだよ。ゆうきにとって俺はそんなに簡単に消し去ってしまえる存在なのかよ。距離がいくら遠くたって俺なら全然平気だよ。5年だって、10年だって愛している自信はあるよ。」
ゆうきは目にいっぱい涙をうかべたままこう言った。
「僕が夢を見ていられるうちに、あなたから離れてゆきたいんだ。愛しているよ、大好きだよ。言葉なんかじゃ表現できないくらいに。でもね、付き合い始めてからずうっといつかこの幸せが壊れてしまう日が来るって覚悟していたんだ。いつか僕の存在があなたにとって邪魔になる日が来るって。寄りかかってばかりじゃ嫌なんだ。だから、秀明から自立していきたいんだ。」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、それはテーブルのクロスに滲み込んでいった。
俺は何も言えず、泣いているゆうきの身体を抱きしめようとした。
そんな俺の腕を彼女は振り払い、隣の部屋に行ってしまった。
俺は自分の不甲斐無さが腹立たしかった。
彼女が自立したいという気持ち・・・それを責めるわけには行かない。
いったい俺の何がゆうきをそんなにまで追い詰めてしまったのだろう。
もうなにもかも分からなかった。
ただ絶望という闇の中に呆然と身を置いていた。



  僕は明日イギリスに発つことにした。
これ以上嘘をつくのが辛かったし、彼を見ていられなかった。
一方的に別れ話を切り出した形になってしまい、凄く気まずかった。
本当のことが言えないってことがこんなにも辛いなんて。
きっと秀明を傷つけてしまったに違いない。
今日は彼の仕事があったけれど、家にいてもお互いに必要以上に口をきいていない。
喧嘩したときとは又違った空気が流れていた。
ベッドに入ってもお互いに背中を向けていた。
夜中、ふと目が覚めた。
彼が寝返りを打った。
そっと彼のほうに向きなおし、その静かな寝顔を見つめた。
明日、さよならしなきゃいけない。
こんなに近くに彼を感じられるのは本当にこれが最後かもしれない。
忘れてしまわないように彼をじっと見つめた。

閉じられた長い睫毛。
左目の下にふたつ並んでいる泣きぼくろが時々どきっとするほど色っぽくて・・・。
珍しく日に焼けた頬もこのところの忙しさで少しこけてしまったけれど、又一段と大人っぽく見える。
そして、触れてしまいたくなるくちびる。
笑ったときにキュッとあがる口角がとっても可愛くって、大好きだった。
彼のくちびるに初めてふれた時のことを思い出していた。
怖がっていた僕を安心させるようなやさしいキスだった。
暖かくて柔らかくて胸がキュンとした。
朝が来るまで結局一睡もできずに彼の寝顔を眺めていた。
気持ちの整理なんてつくはずもなかった。
着替えて台所で朝食の用意をはじめた。
彼にしては珍しくまだ8時になったばかりなのに起きてバスルームに入っていった。
そうか・・・今日はデビュー記者会見の日だった。
こんな大切な日なのに僕はこの部屋を出て行かなければいけない。
なにも知らない秀明は僕が日本を離れる瞬間、ファンの人達やマスコミに囲まれて眩いフラッシュの中でいつもよりも晴れやかな笑顔を見せて佇んでいるのだろう。
なんて皮肉な運命なんだろう。
僕は自分がこれからやろうとしていることの重大さを呪った。

 重い空気が食卓に流れていた。
黙ったまま、コーヒーを秀明の目の前に置くと、彼が初めて口を開いた。
「今日帰ってきたら、もう一度よく話し合おう。何度話しても同じ事だと言われるかもしれないけれど、ゆうきはきっと誤解しているんだよ。俺たちはお互いに対等だし、俺は君のこと重荷に感じたこともない。ましてや束縛するつもりなんて微塵もない。むしろ、ゆうきの夢が現実になるのだったら、俺はできるだけのことをしてあげたい。分かってくれていると思っていたのに・・・。まあ、いいや。仕事が終わったら、電話するから。」
彼はそういい終わると、着替えるためにクローゼットのある部屋へ行ってしまった。

 それからしばらくして彼の携帯が鳴った。
マネージャーさんの車がマンションの下に到着したらしい。
「それじゃあ、行ってくるから。」
秀明は帽子を目深にかぶるとバッグを掴んでドアのチェーンを外した。
「待って、行く前にキスして・・・。」
とっさにそんな言葉が僕の口を衝いて出た。
彼はちょっと戸惑っていた。
「どうしたの?変だよ。ゆうきらしくもないね。」
「最近、ずっと気まずいし・・・でも秀明のこと愛しているから・・・。」
なんだか答えになっていなかった。
でも、これで最後だと思った瞬間、彼に触れておきたかった。
秀明はいつものようにやさしく微笑んで僕の肩を抱くとそっとキスしてくれた。
数秒の出来事だったけれど、僕はそのぬくもりとやさしさを胸に焼き付けた。
真っ直ぐに彼の目をみて言った。
「記者会見がんばってね。いってらっしゃい。」
彼は
「うん。」
と小さく返事をして出て行ってしまった。

 僕は窓の外から走り去る車が小さくなるまでずっと見送っていた。
涙が頬を伝って流れた。
本当はずうっと堪えていたんだ。
彼の前では絶対に泣いたらいけないって。
今、思い返すと、泣いていたのはいつも彼の前でばかりだった。
つよがりの僕が唯一、自分をさらけ出せるのは彼の前でだけだった。
でもこれからはもう泣いちゃいけない。
ひとりで、いや、これから産まれてこようとしている新しい命、それを僕は守っていかなければいけない。
それが秀明の愛に対する僕の答えなのだから。
彼を裏切っていく僕が彼と繋がっていられるたったひとつのすべだった。
それから僕は急いで自分の荷物をまとめた。
何一つこの部屋に残していってはいけない。
彼にもらったものはいっぱいあった。
形のあるもの、形のないもの・・・。
でも、この指輪だけは外したくなかった。
それはたったひとつ形となっている二人の愛の証。
‘いいよね。これだけは持っていても。’
そう何度となく自問自答して僕は指輪を外すことなく、この部屋を後にした。

 もう13時を過ぎる頃だった。
もうすぐアリーナでは記者会見が始まる。
重い足取りで通りに出ると、僕はタクシーを拾った。
「成田空港までお願いします。」
タクシーの運転手は返事をするとラジオのチャンネルを替えた。
ラジオからは聞き覚えのある歌声が流れていた。
それは秀明の『願い』という曲だった。

           さよなら愛しい人
           優しい嘘なら今はいらないから
           だれよりも遠く見えた
           笑顔焼き付けておきたいよ・・・

 笑ってしまえるくらい今の心情とぴったり重なってしまった。
彼が次にこの歌をうたう時、どんな気持ちになるのだろう?
裏切って去っていった恋人をどんなふうに理解してくれるのだろう?
理解できるはずないよね。
だってこんなに苦しいほど愛しているのに、何も告げずに消えてしまうんだもの。
たとえどんな事情があったとしても彼を裏切った罪は消えやしない。
タクシーの窓に映っている自分を見つめた。
青白い顔。
かろうじて涙は流していなかったけれど、目が少し赤かった。
いつもの通りが作り物のような街並みにみえた。
これが現実じゃなかったらいいのに。
でも、まとわりつくような胸の痛みが、これは現実なんだよって僕に言い聞かせていた。
そうこれは逃れようのない現実で、僕はもう後戻りできないところまで来てしまっていた。




 雑然とした楽屋で今日の段取りを思い返していた。
駄目だ、ゆうきのことが頭を離れない。
今朝の彼女はいつもと違う気がした。
キスして欲しいなんて・・・出掛けにあんな風に言われたのも初めてのことだった。
「滝沢、・・・ねえ、滝沢ってば!さっきから人のこと無視するのにも程があるぞ!」
怒った口調の翼の声でわれに返った。
「ごめん。悪気はないんだ、許してくれよ。」
「この間のこと、ゆうきとまだ決着がついていないの?・・・言いたくないのならいいけれど。」
「今日帰ったら、もう一度話し合おうって言ったんだけど。今朝のゆうきの様子がいつもと違う気がしたんだ。ただの思い過ごしかもしれないけれど・・・。」
俺は唯一、翼にだけは有りのままを話した。
「でもさ、俺もやっぱり理解できない部分があるな。ゆうきはああ見えても本当に男みたいなところがあるからな。お前から自立したいっていう気持ちは理解できなくもないけれど、だからって急にイギリスに行くから別れようなんておかしな話だよ。また、ぜったい何かを隠している。そうとしか思えないな。」
相棒は鏡の中の俺に向かってそう力説した。
さあ、もうすぐ会見が始まる時間だ。
プライベートはすっぱり忘れて本番に臨まなければ・・・それがプロってものだ。
それができなければ俺を支えていてくれる多くの人たちに顔向けができない。
俺は相棒の顔を見た。奴の表情にはいつにもましてやる気がみなぎっていた。
俺も負けてはいられない。

 眩いフラッシュと歓声の中に俺たちは立っていた。
デビューまでのカウントダウンがもう既に始まっていて、俺と翼は全力疾走でそこを走り抜けていかなければならない。
ここで躓いているわけにはいかなかった。
もしも・・・考えたくはなかったけれど、たとえゆうきを失うことになったとしてもそれは変わらない。
会見が終わり楽屋までの長い廊下を翼と肩を組んで歩いていた。
Jr.達のテンションも高かった。
ファンの人たちが俺たちふたりの為に一生懸命練習して人文字を描いてくれた。
その姿に胸が熱くなった。
どんな風に思われようとこの人達を絶対に裏切ってはいけない。
その為にも俺は人として自分らしく正直に生きてゆきたい。

 何も言わなかったけれど、翼もきっと同じことを思っていたんだろう。
「滝沢、ゆうきに今日のこと話してやれよ。俺以外でお前のこと分かっているのはゆうきだけだよ。」
そういうと翼はJr.の楽屋にいるからと告げて出て行った。
急いで私服に着替えると俺はJr.の楽屋に顔を出した。
風間が来ていた。
風間は自分のことのように俺たちのデビューを喜んでくれた。
「俺はこのまま帰るけれど、つばさはどうする?たぶんゆうきは家にいるはずだけど寄っていく?」
そう聞くと翼からは意外な言葉が返ってきた。
「風間と話したいし、今日はやめておくよ。それに今日は俺のこと誘っている場合じゃないでしょ。」
「え?滝沢くん今日何かあるんですか?」
風間がすっとんきょうな声で言った。
翼は‘まあまあ・・・滝沢のことはほっといて遊びに行こうか・・・’なんて言ってごまかしている。
俺は相棒の気遣いをありがたく受け入れて家にかえることにした。

 帰り支度を整えて車に乗り込むとすぐにゆうきの携帯の番号に連絡を入れた。
何度コールしてもゆうきはでない。
あきらめてとりあえず留守電にメッセージを残した。
それから間も無く俺は自宅のドアを開けた。
しーんと静まり返った部屋。
どうやらゆうきはいないみたいだ。
今夜も堂々巡りの押し問答を繰り広げなければいけないのかな・・・俺の頑固さに輪をかけてゆうきもかなり強情だし・・・思わず溜息をついた。
暗いリビングの明かりを点けてテーブルのほうへ目をやった。
次の瞬間、俺の視線はテーブルの上にある白い封筒に目が釘付けになった。
‘滝沢 秀明様’封筒にはゆうきの筆跡でそう記されていた。
中にはゆうきの文字が白い便箋にぎっしりと記されていて、俺は頭の中が混乱してくるのを必死に抑えていた。


             滝沢 秀明様

今日迄あなたと同じ時間を共有できたこと、とても幸せでした。
太陽みたいに眩しくて憧れていた存在だったけれど
こんなにも近くに居られた事、今でも夢のようです。
私はただこの世界に逃げ込んできただけの存在だった。
凄惨な現実から逃げたかっただけなのかもしれません。
でも思いもかけず皆の友情、
そしてあなたの愛情を得ることができて
そのことに甘えていただけだった。
これからは本当の自分の居場所を探しにイギリスへ行きます。
そして私も秀明のように輝いて生きて行きたい。
裏切ったと思われても仕方ありません。
最後に・・・
前においしいといってくれたロールキャベツ作ったので
温めて食べてください。
忙しいからといって食べなかったり、寝なかったり、
自分だけの体じゃないのだから気をつけて。

それでは・・・もう二度と会うことがなかったとしても、
ふたりが愛し合って過ごした日々だけは私の宝物です。
ありがとう・・・愛しています。
そして、さようなら・・・・・

        
2002年9月8日     水村 ゆうき

一気にその手紙を読むと俺は放心状態になった。
もう何がなんだか分からない。
分かりたくもなかった。
そしてキッチンに入るとテーブルの上にラップのかかった皿があった。
ラップをはずし、温めもせず手づかみのままその物体を口に押し込んだ。
さほど昔のことでもないのに、なんだかそれは懐かしい味がした。
ゆうきの作るやさしい味だった。
気がつくと暖かいものが頬を伝って皿の中にこぼれ落ちた。
俺の舌はキャベツと香辛料に甘味を感じ、肉の中に血の味を感じ取っていた。


                    
つづく


                            

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