願い・・・ 第7章 whereabouts |
2003年2月 有羽 作 |
「ママ・・・ママ・・・大丈夫?」 またいつもの悲しい夢にうなされていた。 気がつくと額には汗が滲んでいて頬は涙で濡れていた。 小さな顔が私を覗き込んでいた。 長い睫毛に縁取られたその心配そうな黒目がちの澄んだ瞳・・・私がずっと愛してきたあの瞳と同じ。 私は彼を安心させようとその小さな体を抱き寄せ、ふっくらとした頬を両手で包んだ。 私の天使・・・。 なにがあってもどんな出来事が待ち受けようと、この小さくて愛しい存在がある限り生きていける。 彼は愛らしい笑顔を私に向けてくれた。 「ママね、当分朝早くからレッスンなんだ。だからいい子にしていてね。今日もおばさんが迎えに来てくれるから、またアンナと遊んで待っていて。」 「いいけど、ぼく、男の子と遊びたいな。アンナはぼくのことすぐ可愛いとか言って生意気なんだもん。」 ここロンドンにやってきてもうすぐ6年が経つ。 ロイヤル・バレエ学校を経てバレエ団に入り、今は郊外のバロンズ・コートに息子のシュウとふたりで住んでいる。 やっと念願のプリンシパルの座を手に入れ、リハーサル・スタジオがすぐ側にあるこの家に越してきた。 昼間は元同級生で親友であるシルヴィーの実家に息子を預けている。 シルヴィーのママが彼のことをとても可愛がってくれていて、この家にはシルヴィーの姉の娘で彼より二つ年上のアンナという女の子がいた。 シュウに朝食をとらせながら、私はモーニングティーを飲んでいた。 まだすこし肌寒いが心地よい4月の風がカーテンを揺らしていた。 来月の海外公演で私は帰国する。 帰国するといっても両親は亡くなっているし、日本を逃げるようにイギリスにやってきた私にはいつも帰る場所なんてなかった。 ただ一人、今までの人生の中で一番輝いていたあの頃・・・愛していた、いや今でも忘れられないあの人に逢えるかもしれないという淡く身勝手な思いに胸が躍っていた。 そうシュウは私の最愛の人、秀明と私の間にできた子供。 五歳になったシュウは自分に父親がいないことを時々不思議に思い始めていたらしい。 「ぼくのパパはどこにいるの?・・・パパはどんなひと?」 などとたまに質問してきては私を困らせた。 でも可愛そうだけれどあの人にこの子を抱いてもらえる日は訪れないかもしれない。 だってそれは私が犯した罪に対する罰だから。 彼の愛を、秀明の愛を私は裏切ってここに来た。 プリンシパルの座と引き換えに色々なものを犠牲にしてきた。 ‘ごめんね’そう心の中でシュウに向かって呟いた。 シュウはおぼつかない手でスプーンを掴みオムレツと格闘している。 私の天使はまだ青白い小さな羽根を一生懸命羽ばたかせていた。 ◆ 「ねえ、来月もまた公演あるらしいよ。今度こそ行くんでしょ?」 誰もいなくなったリハーサル室の片隅で翼は少しだけ怒った口調でそう言った。 「先月観に行ったとき、俺時間なくってゆうきと会えなかったんだ。手紙だけ渡してもらったんだけれど、忙しいみたいで音沙汰もないし・・・。今度こそお前を引っ張っていかなきゃな!」 奴はなんだかひとりで勢い込んでいる。 先月、山下が教えてくれた新聞に驚くような記事が載っていた。 『水村 梨乃、新進気鋭のロイヤル・バレエのスターダンサーが日本で凱旋公演!・・・ロイヤル・オペラ・ハウスでの公演は大盛況をはくし、現地新聞では彼女は‘マーゴ・フォンティーヌの再来’と言われている・・・』 そんな見出しのついた記事をみて驚いた。 だって、その横の写真に写っていたのは紛れもなくゆうきだった。 あの日、一方的にいなくなってしまった俺の恋人は再びこんなかたちで俺の前に現れた。 水村 梨乃・・・今は名前を変えてステージに立っているらしい。 翼に散々罵られたが俺は結局そのステージを観る事はなかった。 というかどんな顔して彼女に会いに行っていいのかすら分からなかった。 「実は今度の映画なんだけれど、監督がヒロイン役を水村 梨乃にしたいって言っているんだよね。」 「えっ?でも別の女優でもう決まりそうだったんじゃないの?」 翼は驚いていた。 「どうやら先月のゆうきのステージを監督が観てきたらしいんだよ。それで、ヒロインにぴったりだって、彼女しかいないって本人に打診したらしいんだけれど・・・。」 「そ、それでどうなったの?」 「俺の名前をだしたからかどうか分からないけれど、すぐに断ってきたらしい。」 「なーんだ!」 翼は何を考えているのかがっかりして見せた。 「そう、ほっとしていたのに、また口説くって諦めていないんだよ。本当に困るよ。」 俺はあきれた口調でそう言った。 「滝沢はゆうきの舞台を観ていないから、そんなことが言えるんだよ。これは仕事なんでしょ。普段から仕事に私情は挟むなって言っているくせに、自分のことになるとからっきし駄目なんだよね。」 ぴしりとそう言われて、俺は立つ瀬がなかった。 今年中にクランク・インする予定で映画の主演の話があった。 カメラマン志望の男とバレリーナを目指す女性のラブストーリーで彼女は病に侵されて死んでしまうという悲恋のストーリーだった。 あれから、数週間が経った。 もう6月になっていた。 俺は翼の車に乗せられて、ゆうきの公演会場に向かっていた。 「やっぱり、手ぶらじゃまずいよな・・・花くらい持って行かなきゃ。どっか花屋あったっけ?」 翼は運転しながら窓の外を見回している。 俺はいつだったかショーウィンドーで見かけたオールドローズの小さい白い花を思い出していた。 「そうだ、翼、広尾にいってくれないか。」 俺の一言で車は広尾へと向かった。 「なんだかんだ言っても、やっぱりお前はゆうきのこと一番理解しているよ。俺はとうてい足元にも及ばない。」 そう言う翼と俺の間にはゆうきに渡す為の花束があった。 ほとんど花屋のウィンドーで見かけることは皆無に等しい、真っ白なオールドローズの花と僅かに彩を添えるようにピンクのマーガレットが数本混ざったブーケ。 その薔薇はゆうきが大好きなものだった。 ◆ 荒い息を整えながら私は観客のスタンディングオベーションに応えていた。 今日の演目は『ジゼル』。 それは急な代役で出演し、プリンシバルの座を手に入れるきっかけとなった思い出の演目だった。 楽屋に帰ると素顔に戻って、私服のシンプルなブラウスとロングスカートに着替えた。 ほっとしていると、楽屋をノックする音がした。 ドアの向こうには懐かしいはにかんだ笑顔が待っていた。 「翼くん!ありがとう、観に来てくれたんだ。ちょっと待って、時間ある?ティールームがあるからそこでゆっくり話さない?」 そんな問いかけに、彼は人懐っこい笑顔で頷いた。 楽屋を出てロビーに向かって並んで歩いていくと、向こうから見知らぬ女性が声を掛けてきた。 「なみちゃん・・・。」 翼くんは少しとまどったような顔を彼女にむけた。 「ここにくれば秀明と会えると思ったのに。帰っちゃったの?せっかく驚かしてやろうと思っていたのに・・・。あっ、水村 梨乃さんですよね?私、観ていました。すごく綺麗で感動したわ!翼くん、ぼうっとしてないで紹介してよ!」 翼くんは仕方ないなという面持ちで彼女を私に紹介した。 「ゆうき、いや梨乃ちゃん。こちら、一の瀬なみさん。女優さんで、僕と滝沢の友達。」 「ちょっと違うでしょ。正確には翼くんの親友の彼女。私、秀明の彼女なんです。で、梨乃さんはふたりとはどういうご関係?梨乃って本名じゃないんですか?」 彼女は大きな瞳を更に見開いて私を見た。 「私はふたりの友達。でも、十代の頃の話で今日は6年ぶりに再会したんです。本名はゆうきっていうんです。」 そう言うと気のせいか彼女の瞳はきらりと光って見えた。 「なみちゃん、もう行く時間だよ!」 エントランスの方からマネージャーらしき男性が声を掛けた。 「私、もう行かなくちゃ。梨乃さん、翼くん、邪魔してごめんなさい!」 そう告げて彼女は足早に去っていった。 「ゆうきごめんね。びっくりしたでしょ。」 「ううん。大人っぽくて華やかな人ね。それにすごくグラマー。私、引け目を感じるな。」 「確かゆうきよりひとつ年下だよ。まあ、引け目を感じることなんてないんじゃない。俺はああいう派手ではっきりしたタイプは苦手。俺はどちらかというとゆうきみたいな癒し系のほうが好きだな。」 「お気遣い、ありがとう。」 そう言って笑いながら、私たちふたりはティールームの窓際の席に座った。 「あっ、忘れていた。これ、受け取って。」 そう言って翼くんが差し出したものは真っ白い薔薇のブーケだった。 よくみると小さなカップ咲きのオールドローズだった。 驚いたのと共に秀明の顔が一瞬、頭をよぎった。 「この花よく見つけたね。イギリスでは珍しくないけれどこちらじゃほとんど見ないものね。」 「滝沢が知っていたんだ。あいつと花なんて程遠いのにね。滝沢、ほんとは今日の公演を一緒に観ていたんだ。どの面さげてあったらいいか分かんないって言って帰っちゃったんだよ。」 「でも、しょうがないかも。私も秀明と同じ気持ちだもの。」 「ところでさ、さっきのなみちゃんのこと気にならない。」 「もう、6年も経っているんだもの。逆に安心したわ。私のせいで彼が不幸だったら嫌だもの。」 「そんなものかなあ。でも滝沢がほんとに彼女のこと好きなのかいまいち分かんないんだよね。なみちゃんて凄く寛容というか・・・やつが他の女の子と会っていても全然平気らしい。あっ、今俺、余計なこと言っちゃたかな?でも、昔の滝沢から想像つかないでしょ?やっぱり、ゆうきにいなくなられちゃった反動なのかな・・・いろんな子とつきあったけれど長続きしないんだよ。それに俺の口から言いたくないけれど、あのルックスでしょ・・・自然と女の子のほうからアプローチしてくるみたい。まあ、ゆうきと付き合っていた頃は、‘ゆうき一筋です’みたいなオーラをだしていたからなあ。」 そう言って彼はため息をついた。 「もう、秀明の話はやめにしない?ところでそういう翼くんは彼女いるの?」 「俺はいるよ。彼女モデルなんだけれど、すっごく明るくて飾り気のない子なんだ。それにしっかりしているし、俺は頭が上がんないってかんじ。」 翼くんの頬が少し上気して見えた。 「ゆうきはどうなの?ゆうきほどの女が6年もなにもないなんてことないでしょ?あっ、でもあれか?芸一筋っていうやつ?」 「それに近いな。私はここまで来るのに色々な犠牲を強いられてきたから。でもね、実は今、一緒に住んでいる男がいるの。」 そういうと翼くんのアーモンドのような瞳が一段と大きくなった。 「えーっ!すっごいショック!あまりにショッキングで俺、滝沢に言えないよ!」 私はそんな言葉を聞いておなかを抱えて笑った。 「よく聞いてね。実は私子供がいるの。五歳になる男の子がいるの。」 「ちょっと、それってもっとショックだよ。で、旦那はどんなひとなの?」 「未婚の母なんだ。母ひとり、子ひとりってやつ。可愛いよ。彼のためなら私、命だって惜しくないもの。誰も知らないイギリスで頑張ってこられたのはあの子がいたからなの。」 「ふーん。そうなんだ。じゃあ、今度会わせてよ。ゆうきのエネルギー源に・・・いいでしょ?」 「いいよ。翼くんもきっと子ども欲しくなっちゃうよ。」 そう言ってふたり笑いあった。 それから、翼くんはふいに表情を引き締めて、こんなこと言ってきた。 「ごめん。また、滝沢がらみの話になっちゃうんだけれど、映画の話を断ったって言うのは本当?」 「本当だよ。あたりまえでしょ、彼にも申し訳ないし。」 「それ、考え直したほうがいいと思う。滝沢にも意見したんだけれど、プロなら私情は持ち込まないのが鉄則でしょ。それにあの監督の作品をみたことないでしょう?俺、実は密かにファンなんだよね。大スペクタクルの大作ってやつとは程遠いんだけれど、叙情的っていうのかな・・・なんていうか心の奥底に訴えてくるものがあっていいんだよね。ぜったい作品を観てから決めたほうがいいよ。これからのゆうきのためにもぜったい損はしないと思う。」 彼はそう力説した。 「ありがとう。そんなに言うならビデオで観てみる。」 私は素直な気持ちでそう答えた。 「さあ、そろそろ俺帰んなきゃいけない。今日は来てよかったよ。ゆうきはいい女になったよってあいつに言っておくから。」 「私こそ会えてよかった。しばらく行ったり来たりの生活だけれど、時間があったらまた会ってね。貴重な私の親友なんだから。」 そう言って翼くんを見ると、彼はふっと息をついた。 「俺は昔からずうっとゆうきの親友・・・それ以下にもそれ以上にもなることは、これから先もないんだろうな・・・。まあ、いいか!ねえ、今度はゆうきの子供にぜったい会わせてよ。約束だよ!」 彼はいつもの屈託のない笑顔を私に向けた。私たちは名残惜しい気持ちを残し、その日はそれで別れた。 つづく
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