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第13章
2004年1月
有羽 作


容態も安定しているということで、病院から一時外出の許可が出た。

「家に帰れるし…滝沢君にも会えるかもよ。」
母はそう言って、微笑んだ。
「そうだね。彼に会いたい。」
私は母に笑顔を向けたが、もう外の空気に触れるのもこれが最後だと分かっていた。

とりあえず家に帰ると秀明に連絡することにした。
その日はクリスマス・イヴで、彼は仕事が終わり次第会いに来ると言った。
母に彼が来ることを伝えると、
「泊まっていってもらえば…。」と言って、来客用の布団を私の部屋に運んでくれた。

彼は夜の9時近くに我が家へやって来た。
母の手料理を食べて、三人で一時間くらい談笑した。
「お布団を真珠(まじゅ)の部屋に運んだので、泊まっていってくださいね。」と母が言うと、彼は一瞬照れたような顔をして恐縮したが、私が居て欲しいと言ったのでそのまま泊まることになった。

私の実家の部屋には古い映画のポスターが何枚も貼ってあって、秀明はそれを珍しそうに眺めた。
ジェームス・ディーン、モンゴメリー・クリフト、イングリッド・バーグマン…。
「知ってる?」って聞いたら、
「ジェームス・ディーンしか分かんない。」と彼は答えた。
「マンションからすぐ近くの駅にリバイバル上映専門の小さな映画館があったの。バイトをさぼってよくそこで映画をみたんだ。ジェームス・ディーンの“理由なき反抗”“エデンの東”やモンゴメリー・クリフトの“終着駅”なんかを何回もみたな。ディーンの、演技とは思えないような衝動的な表現に心が釘付けになった。一時間千円そこそこで手がボロボロになるまで皿を洗い続けるより、私には遥かに生きる糧になった。後ろから5列目左端のちょっとだけ肘掛の壊れた席が私の定位置だったの。」
「全部、俺達が生まれる何十年も前に作られた作品だよね。なのに何年経ってもきっとまた誰かが何処かで、いろんな事を思いながらその作品を見る…そう思うと俳優って凄い仕事だよね。」
「きっといつの日か、秀明もそうなれるかもよ。」
私がそう言うと、彼は‘どうかなあ…自信ないなあ…’と言ってちょっと首をかしげて見せた。

秀明は私のベッドの下の床に布団を敷いて、そこに寝る事になった。

明日がきたら私は病院の冷たいベッドに、彼は東京でのめまぐるしい生活に戻っていかなきゃならない。
こんなにゆっくりお互いの時間を共有できるなんて、きっとこれが最後になるかもしれない。
秀明は布団に入ってからも、会えなかった間の出来事を色々と話してくれた。
これから始まる舞台への意気込みや不安、リハーサルでの出来事、そして日常での何気ないことを面白おかしく話した。
眠れないみたいで彼はいつもより饒舌だった。
「クリスマスらしいこと、なんにもして上げられなかったね…プレゼントもないし。」
彼はそう言って私を見た。

「ねえ、隣に行っていい?」
私がそう聞くと、秀明はうなずいて布団の右端に身体を移動させた。
私はベッドを抜け出して、秀明の寝ている布団に滑りこむように入ると、彼の左側に腕枕をして横たわった。
もうこんな夜は来ないって諦めていただけに、嬉しかった。

さっきまでおしゃべりだった秀明は急に寡黙になって私を見つめた。
彼の右手がすっと私のあごを持ち上げ、ためらうように親指で私のくちびるをなぞった。
私は甘い予感の中でゆっくりと目を閉じた。
ふたりの距離が近づいて、もう少しでくちびるが重なる数センチのところで彼の動きが止まった。
「ああ、やっぱりよくない。君は病人なのに、こんなことしていたらおかしな気分になっちまう。」
そんなことを言って、彼は私を抱き締めると私のまぶたにくちびるを押し当てた。
そして、小さな溜息をついた。
「私はこうしていられるだけで充分しあわせだよ。秀明が今日ここにいて、こうして抱きしめてくれることが最高のプレゼントだもの。こうして抱き合っていると安心するの。」
私はその夜、一晩中彼の胸の音を数えながら、いつのまにか眠りについた。
朝早く目が覚めると、目の前には秀明のやすらかな寝顔があって、それを忘れてしまわないようにずっと眺めていた。
まだ少し、少年の名残のある彼の綺麗な寝顔が私だけに与えられたクリスマス・プレゼントみたいだった。

その日、午前中の内に私は秀明と母に送られながら、再び病院のベッドに戻った。
彼は病室に30分ほどいたが、また東京へと帰っていった。
でも、秀明は翌日もその翌日も顔を見せた。
面会時間に来られない時も、窓の外からいつものように合図を送って、あのポプラの枝に手紙をくくり付けた。
こちらが心配してしまうくらいハードなスケジュールをぬっては、顔を見せた。

年末を迎え、新しい年が来ても病室から出られない私を気遣うように、秀明は毎日のように私に会いに来てくれた。
「もうすぐ舞台の初日なんでしょう? こんなところにいて大丈夫?」
「ここに来て真珠(まじゅ)の顔をみると、仕事する意欲が沸いてくるんだよ。」
秀明はそんなことを言ったが、私は辛かった。

‘次に発作を起こしたら、多分もう覚悟したほうがいい…’母が先生にそう言われていることも知っていた。
私はもう終わりにしたかった。
でも、秀明が来るたびに辛かった。
彼は私が生きることを望んでいたし、私の死を恐れていた。
その日、私は思いきって彼にこう言った。
「ねえ、なんだか凄く疲れているみたい…。しばらくここに来なくても、私のことなら大丈夫だから無理しないで帰って休んで。ねえ、お願い。あさってはもう初日なんでしょう?」
彼は私の言葉が意外だったみたいで、少し面食らっているようだったが、
「真珠(まじゅ)がそういうなら…。舞台が始まったらしばらく来られないと思う。でも、落ちついたらまたくるからね。」と言って帰った。
私は病院の窓から、いつまでも彼の姿を目で追った。

‘ごめんね。あなたが私を引きとめる気持ちは分かるけれど、私はもういかなきゃならないの…。’




今日はとうとう舞台初日の幕が上がる。
真珠(まじゅ)のことは忘れたわけではないが、この空間に立っている時だけは別なんだ。
俺は“滝沢秀明”でも、“タッキー”でもない、よく似た、でも全く別の男にならなきゃいけない。

舞台の袖で幕が上がるのを待っている間、ふと人の気配がして後ろを振り向いた。
楽屋へ繋がっているはずの真っ暗な闇の中に一瞬、真珠(まじゅ)が立っているように見えた。
彼女は微笑んで俺のほうを見ていた。
又、外出許可がでたのかなあ…。
でもそんな筈は無い。
会いたい気持ちがつのって、とうとう幻影をみてしまったのかもしれない。

俺は目を閉じると、ゆっくりと深呼吸をした。
そして初日の舞台の幕は上がった。
‘見ている人に共感して貰える魅力的な俳優になって貰いたいの。’
真珠(まじゅ)の言葉が心の片隅から離れなかった。
俺は夢中で演じた…そして生きた。
俺とよく似た、でも、まったく別のその男の人生を…。

気がつくとカーテン・コールの渦の中に立っていた。
ねえ真珠(まじゅ)、君にも見てもらいたかったな…君はなんて言うだろうか。
あと何日かしたら絶対に会いにいくから、それまで待っていてくれ。
祈るような気持ちでそう何度も心の中で呟いていた。

初日の幕が上がってから二週間近くが経っていた。
俺はまだ彼女に会えないままだった。
映画やドラマと違って、舞台は生き物だ。
だから、毎日少しずつ台本も変わり、昨日とはまた違う人生を俺は生きた。

その日、舞台が終わった楽屋に井上君が訪ねて来た。
彼は俺の顔を見ると、
「真珠(まじゅ)に見せたかった…あんたは凄いよ。あいつはやっぱり見る目があるよ。今頃、天国のどこからかあんたのことを見守っているんだろうな。」
と言った。
「“天国”ってどういうこと? 真珠(まじゅ)は病院で俺のことを待っているはずじゃあ…」
そう言うと、井上君の表情が変わった。
「知らないなんて、嘘だろ? 二週間も前にあいつは亡くなったんだ。急に発作を起こしてそのまま息を引取った。何も連絡がなかったなんて…」
それだけ言って彼は絶句した。





つづく



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