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第12章
2004年1月
有羽 作


入院してから一日一日の時間がとても長く感じられる。
秀明にはあんなふうに格好いいことを言ったけれど、淋しくない筈がない。
一日中考えてしまうのは、やっぱり彼のことだけだった。
7時の面会時間が終わるのが恨めしかった。

彼が帰ってから三日目の夜、もうすぐ10時を過ぎようとしていた頃、窓の外から一筋の光りがぼんやりと病室の壁を照らした。
そしてなにかの合図のように、まるで生き物みたいにくるくる回ったり、動いたりした。
いったいなんの光りなのだろう?
私はベッドから抜け出すと、窓の外を見下ろした。
窓の下には大きな懐中電灯を手にした秀明が立っていた。
会いたいって思っていたから…幻でも見たのかしら…。

でもそれは紛れも無く愛しい秀明の姿だった。
彼は私に向かって大きく手を振った。
私は精一杯、彼に向かって微笑んだけれど、5階の窓からでは果たして見えていたんだろうか。
秀明はポケットからノートとペンを取りだすと、何やら書き始めた。
そして、その紙を破くとすぐ側の植栽のポプラの枝にくくり付けた。

私はうなずくと、オッケーのサインに両腕で頭の上に円を描いた。
彼は名残惜しそうに何度も何度も振りかえりながら、車を止めた所まで戻っていった。
その姿を私はずうっと見送って、彼の姿が見えなくなってからも、しばらく窓の側を離れる事が出来ずにいた。
きっと、秀明も私と同じ気持ちでいるのかなあ…。

彼は私の側にいたいと言ってくれたのに…
彼のことを何にもかえがたいほど愛していると言えるけれど、
私は彼を悲しませるためだけに生まれてきたんだろうか?

かつて私が感じていたような、同じような恐怖を秀明は感じているのかもしれない。
でもね、救ってあげることは出来ないの。
答えはいつも自分の内側にあって、それを成長させる為に私達は様々な経験を積み重ねていくのだから。
ねえ…いつだって、なんの迷いも無くあなたを愛してるよ。
だから、見えないものを信じて…いつも私の思いはあなたのすぐ側にあるんだよ。


翌朝、目が覚めると私は母に頼んで、昨夜、秀明がポプラの枝にくくり付けたあの紙きれを取ってきてもらった。


真珠(まじゅ)へ

何日も会えなくて、ごめん。
忙しいのは相変わらずなんだけれど、
何をしていても真珠(まじゅ)のことが頭を離れない。
病人の君のことを元気にしてあげなきゃ…って思うのに、
俺のほうが背中を押してもらっているみたいだね。
12月になって東京の街はクリスマスの色に染まっています。
初めてのクリスマスは一緒に過ごせないかもしれないけれど
なにか欲しいものはない?
少しでも君の喜ぶ顔がみたいんだ。
それが俺自身にとっての一番のクリスマス・プレゼントだから。
又、ゆうべのように会いに行きます。
メッセージがあったら、同じ枝にくくりつけておいて。

                            秀明

彼の走り書きのような字を懐かしく感じた。
欲しいものなんて何もない。
あなたの心の片隅に私の存在が確認できただけで嬉しいの。


できることなら、もう一度だけ…
あなたの胸の鼓動を数えながら眠りたいな。
そして窓から見えるベルベットの夜空には、クレッシェント・ムーン。
新月から数えて三日目の細いお月様が見えたらいいな。
でもね…そんな夜はもう来ないってことも分かっている。
ただ、今はまだ夢をみていたいの。

私は便箋を取りだすと彼に返事を書くことにした。
伝えたい事は沢山あるのに、ペンはいっこうに動こうとはしなかった。

パーティーみたいな恋はもうおしまいなの。
舞台もはねて、イルミネーションの絵空事も、もうおしまい。
あとに残るのはなんだかわかる?
あなたの中の私と、私の中のあなただけ。
だから…きっと見つけてね。
私はいつもここにいるのだから…

あなたが私を見つけられるように、今まで誰にも打ち明けた事の無い私を伝えたかった。




あれから、いくどとなくポプラの枝をポストがわりに、俺達の手紙のやりとりは続いた。

俺は忙しさの中で自分自身を見失わないように、
そして真珠(まじゅ)への切ないほどの思いが届くようにと、何度もペンを握った。

真珠(まじゅ)は病院のベッドとそこから見える景色以外、何も変わることのない毎日を送っていた。
分かりきっていたことだが病状はいっこうによくはならなかった。
彼女が俺に宛てた手紙は徐々に独白のようになっていった。

ドラマの撮影中にだしたNGの本当の理由…
それは真珠(まじゅ)と彼女の父親との確執からはじまっていた。
かつては腕のよい家具職人だった彼女の父親は、事故で手を怪我してからは人が変わってしまった。
父親のアルコール依存症、家庭内暴力の果てに真珠(まじゅ)の5歳上の兄は18歳で家を飛び出した。
それから3年後、彼女は役者への夢もあり、16歳で実家を出て東京に来た。
そして、あのシーンの収録の数日前に父親は突然の病で亡くなった。
真珠(まじゅ)も兄も父親の通夜にも葬儀にも姿を見せる事は無かった。

彼女は父親を最後まで許す事ができなかった自分を後悔していると言った。
今、死を意識するようになってから、父親の淋しさが少しだけわかるような気がするとも言った。
そしてこんなふうにも言った。
誰かを許す事ができない心はとても苦しいし、救われない。
でも、もう今では父の事も誰のことも恨んではいないから、苦しくはないと言った。

先日、お兄さんが彼女を見舞って病室に訪れたらしい。
そして子供の頃の思い出話をしたそうだ。
ふんな思い出話の果てに、父親がいかに幼い兄妹を愛していたかを悟ったんだ。
お兄さんも彼女もやっと長い呪縛から逃れられることができた。

真珠(まじゅ)を芝居に駆りたてていたのは“愛されたい”という思いからなんだろうか?
だったら、俺はなんのためにこの世界にいるんだろうか?
俺は真珠(まじゅ)を…俺をみてくれる全てのひとたちを…そして、取り囲むすべての世界を愛したい。
そんな気持ちになった時、きっと最高の自分にたどり着くのかもしれない。

真珠(まじゅ)…不思議だけれど、君を愛するようになってから分かったんだ。
俺は君のためにも、いい役者に成りたい。
そのために俺は、世界中のすべてを愛するんだ。
登山家が山に恋しているように、
小説家が神さまに宛てて“物語”というラブ・レターを書くように、
俳優はこの世界のすべての人間に恋をしなきゃならない。
そうでなければ、王様も大富豪も乞食も、娼婦も殺人犯も、平凡な男ですら演じることはできないだろう。
人の心を衝き動かしているものは…それは“愛”なんだ。
君に恋をしているとき、俺は世界中に恋をし、世界中のすべての人に恋をする。
それを本気で追求していくことが、きっと演じるってことなんだろう。

真珠(まじゅ)の手紙は彼女自身の独白と同時に、俺の内面への問いかけでもあった。
君は俺に心の中のすべてをさらすことで、こらから俺に訪れるであろう喪失感を超えるなにかを伝えようとしていた。
そしてそんな思いが伝わったとき、どんなに離れていても俺は真珠(まじゅ)の絶対的な無条件な愛を感じたんだ。

君は手紙の中で‘なにも欲しくは無い’と言った。
そうだよね。
君にとってなにが一番うれしいか…それが大切なことだった。

恋をしていつもぶちあたる壁があるんだ。
それはね、どうやって愛をうまく伝えるかってことなんだ。
こんな仕事をしているせいか、誤解されることが多いんだけれど、本当は凄く照れ屋で不器用だから。
どうしたら君に俺の気持ちが伝わるんだろうか?
俺にはまったく見当がつかなかった。





つづく



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