第9章 |
2004年1月 有羽 作 |
滝沢君…いいえ、秀明と私の貴重な時間は順調に流れていった。 会えない時間は時計の針はゆっくり動き、とても長く感じられたし、ふたりだけの時間はお決まりのようにあっという間に過ぎるので、瞬きをするのも惜しいくらいだった。 秋も深まり舞台稽古も佳境に入っていった。 私達が演じるのはW.サローヤンの“おーい、救けてくれ”という戯曲で、登場人物も少なく、そんなに長いストーリ−ではなかったが、演じ方や見ている側の心理状態で内容はかなり変ってしまう可能性のある繊細な芝居だった。 私が演じるのは牢番の下働きの女の子で、心は純粋だが容姿はあんまりぱっとしないような娘だ。 いっそのこと髪をばっさり切ってしまおうかと悩んでいた。 そんな訳で、私にとって秀明といる時間は一分一秒でも大切なものだったけれど、ひとりでいる時間もとても大切に思えた。 そしてそのことを彼はよく分かってくれた。 だからいつも、顔を合わせるとついわがままばかり言ってしまうんだ。 なんだか私は少し焦っていたのかもしれない。 優しくされればされるほど、楽しい時間を過ごせば過ごすほどに…私は不安になっていった。 ある晩、眠れない私は夢をみていた。 私と彼は手をつないだまま、横たわっていた。 そこは海の底の様にほの暗く、頭上からは薄い光りがぼんやりと差し込んでいる。 私達が見上げている先には水面越しに空が見えていて、その空には白い雲が流れていく様子がわかる。 そして、その空には私達の心を映すように様々なものが流れて行く…。 初めて見た舞台から、こちらに向かって語りかけてくるような役者の姿。 理由もなく、悲しく理不尽にやって来たかつての恋人との別れ。 私が秀明に描いていた夢のいくつかが、ゆっくりと雲の流れのように通り過ぎて行く。 私はそのたびに小さく溜息をつく。 次にやはり彼が、過去に自分を傷つけるようにして別れ話を切り出したであろう女の子の死体が、ゆっくりと頭上を流れていく。 彼の口から小さな気泡が水面にたち昇る。 それらに夢中になってふと横を見ると彼の姿はなかった。 彼は私の手を放し、どこかへ消えてしまった。 声を出して彼を呼ぼうとしたが、深い海の底で声がでない。 頭上に映っていた空はもう何もなく、そこには真っ暗な闇が広がっているだけだ。 必死で叫ぶ私は段々胸が苦しくなる。 声がでない、息ができない… 目が覚めて夢だと分かって、ほっとしていた。 ひょっとしたら、このままずうっと目が覚めないかもしれない。 そんな思いに取りつかれて眠れない夜もあった。 もしも、このまま永遠に目が覚めなかったら、秀明は私のことなんてすぐに忘れてしまうのかもしれない。 彼の幸せを思うのならば…そのほうがいいに決まっている。 でも、そう思うと私の胸は張り裂けそうになった。 “忘れ去られてしまうこと”それはなににも耐えがたい恐怖なんだ。 日々を重ねるごとに私は“死”を意識せずにはいられなかった。 そしてそれと同じくらい“生きていること”の意味を探していた。 こんなこと…他人に話したら笑われるかもしれない。 私は何のために生まれてきたんだろう? 真剣にそんなことを考えたりしていた。 稽古とアルバイトに明け暮れる毎日。 そして、その合間をぬって秀明と会っていた。 忙しい彼は嫌な顔もせず、我がままな私につき合ってくれた。 そして、その夜も彼を夜中に呼びだした。 彼は私のマンションまですぐに来てくれた。 私の部屋の窓からは大きな公園の鬱蒼とした林と、その向こうに大きな池が見えた。 どうしても今夜、その池にあるボートに乗ってみたかった。 そして困惑する秀明の手をひいて、私達はその公園へ向かった。 車の騒音も街の喧騒とも無縁のようにその場所は静まりかえっていた。 秋の澄んだ空と冷たい夜風が静けさを更に際立たせていた。 私達は既に閉まっている公園の黒く重い鉄の門を乗り越えて、なんとか中に忍びこんだ。 そう、無謀なこの提案の本当の意味を、この時の私は自分でもよく理解していなかったんだ。 その夜もいつものように真珠(まじゅ)に呼びだされた。 彼女の我がままはいつものことだったけれど、その晩はちょっと度を越していたんだ。 真珠(まじゅ)はこんな夜中にボートに乗りたいと言ってきかなかった。 「そのうち昼間乗れる時があるから…」と言っても、 「今夜ぜったいに乗る」と言って譲らなかった。 そして、彼女の部屋の窓から見えるあの公園に行く羽目になった。 当然のように公園の門はとっくに閉まっていた。 「暗いし、足元も危険だから帰ろうよ。」 そう言う俺を後目に真珠(まじゅ)はさっさと門を乗り越えて中に入った。 真珠(まじゅ)の心臓が悪いなんて、本当は嘘で、俺はからかわれているのかもしれないとさえ思った。 やれやれ…そう思いながら俺も仕方なく公園の敷地内に忍びこんだ。 真珠(まじゅ)は俺のほうを見ると嬉しそうにウィンクして、池の方角へ歩いて行った。 桜やブナの木々が立ち並ぶ林を抜けると、大きな池のほとりに着いた。 池には何曹かのボートが浮かんでいて、柵を乗り越えると彼女はそのうちのひとつに乗りこんで池のほとりの杭に繋がっているロープを必死でほどき始めた。 ロープが解けると、今度は俺に向かって手招きした。 ここまで来たならもう仕方がない。 諦めて俺も彼女の乗っているボートに乗りこんだ。 誰か見まわりの人間でも来るんじゃないかとびくびくしながら、それでもオールで一生懸命に漕いだ。 池の真中まで来ると、俺達は漕ぐ手を休めてしばらく息をひそめるように水面やあたりの様子を伺っていた。 真珠(まじゅ)はボートの中に横たわって、胸の上で手を組むと独り言みたいに小さな声でこう言った。 「前に見た映画でこんなシーンがあったんだ。瀕死の主人公が冒険の最後にボートに乗って河を下っていくの。向こう岸に見えていた親友の姿や陸地がゆっくりと遠のいていって、綺麗な雲が流れていくのが見える。それは死の世界に旅立つ事を予感させるんだけれど、まるで景色や河の流れが視界に入ってくるのと同じように、自然に受け入れられるんだ。そして、こんな風にボートの中で横たわって流れる景色を見ているの。」 彼女は横たわったまま、そう言ってしばらく目を閉じていた。 その姿はあたかも死体のように見えた。 真珠(まじゅ)の命があとわずかだってことを俺はあまり意識したことがなかった。 本当の事を言えば、‘そんなはずない’って心のどこかでたかをくくっていたのかもしれない。 多分どこかで無理をしているのかもしれないが、お互いにそのことには触れないようにしていたし、体力的に辛いときでも、彼女はそんなそぶりはみせなかった。 ひょっとしたら、このままもう真珠(まじゅ)が目を開けないのではないかと、その瞬間に初めて彼女の死を意識した。 池の水面には少し歪んだ月が浮かんでいた。 「ねえ真珠(まじゅ)、見てごらんよ。池の中に月が映っているよ。」 そう言うと、彼女は上体を起こし水面を覗きこんだ。 そして、手を伸ばすとそれを掴む真似をして池の水をすくった。 その度に池の中の月は壊れて、ボートは左右に激しく揺れた。 「危ないから止めろよ。ボートがひっくり返るよ。」 そんな俺の言葉を無視して彼女は落ちそうな格好で水面をかき混ぜた。 ボートは更に激しく揺れて、俺の心配通り派手な水音と共にひっくり返り、俺達ふたりは池の中に投げ出された。 「きゃー! 冷たい!」 そう真珠(まじゅ)は言ったけれど、どこか楽しそうだった。 ‘バッシャーン’という激しい水音と水鳥たちが飛び立つ羽音と彼女の悲鳴に気づいたのか、公園の管理人らしき男性の怒鳴り声が闇の中に響いた。 「こらー!! 誰かいるのかー!!」 俺達はボートを元に戻すと、何とか池の中からよじ昇り、急いで岸に向かってオールを漕いだ。 その間も真珠(まじゅ)はおかしくて我慢出来ずにクスクス笑っていた。 俺はこんなところで見つかっては大変な事になると思い、必死でオールを漕いだ。 なんとか陸地にたどり着くと柵を乗り越え、元来た道を真珠(まじゅ)の手を取って全速力で走った。 林を抜けて門がある方角へ行こうとする途中で、急に彼女は立ち止まった。 「こっち、こっちだから…」 今度は真珠(まじゅ)が俺の手を掴むと、門と別の方向へ俺を引っ張っていった。 そこは小高い丘になっていて、樹齢何十年くらいだろう…というようなりっぱな枝振りの桜の大木が夜空に向かって赤く色づいた葉を茂らせていた。 「あー、もう限界。これ以上走ったら、心臓が破裂するかも…。」 真珠(まじゅ)は苦しそうに肩で息をしながら、桜の幹に寄りかかっている俺の横に同じように寄りかかった。 「あんなことするから自業自得だよ。」 俺はちょっと怒っていた。 真珠(まじゅ)は今度はそんな俺の前に立つと、こう言った。 「やばい…まだ心臓がドキドキしてる。ほら…。」 そう言って俺の右手を取って、自分の左胸の上に置いた。 「柔らかい…。」 「馬鹿!」 なんだか今夜も真珠(まじゅ)に翻弄されたけれど、そんな彼女が可愛く思えた。 真珠(まじゅ)は俺を見つめて微笑むと、その細い両腕を俺の首に巻きつけてきた。 俺達は月の光りの下で見つめ合った。 もう、このまま時がとまればいいのに…。 そしたら、生き抜くことの過酷さも、死への恐怖も全てが消え失せるだろう。 彼女はおずおずと顔を近づけると、ためらいがちにくちびるを重ねてきた。 甘いはずのキスは…池の味がした。 池に落ちてふたりともびしょ濡れな筈なのに、彼女に触れている部分が熱を帯びているように熱かった。 そして真珠(まじゅ)は俺の腕の中で驚くようなことを言った。 「ねえ、お願いがあるの。今、ここで私を抱ける?」 真珠(まじゅ)は真剣なまなざしで俺にそう言った。 「・・・・・・・」 俺が返事に困っていると、真珠(まじゅ)はさっさと着ていたシャツを脱ごうとした。 なんで急にそんなことを言いだしたのか戸惑ったが、彼女は本気だった。 俺は彼女の腕を掴むと、その動作を制した。 女の子にここまで言わせて、このまま引き下がる訳には行かない。 それから、俺達は桜の大木の下で愛を交わした。 |
つづく
|