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第8章
2004年1月
有羽 作


ドラマの撮影が終わった後の私は、一日中、バイトと舞台稽古に明け暮れる毎日だった。
体力は日増しにきつくなっているが、一人で考えこむ時間なんてないほうが人間は幸せだ。
もう忘れられる…そう思いたかったのに…。
それでも、なにかの拍子に突然それはやってくる。
ある日稽古場でビデオを見ていた時にそれはやって来た。

シェイクス・ピアの“Romio & Juliet”の中の有名なシーンだった。

「僕の愛をあの月にかけて誓いましょう」
「夜毎その姿を変える不実な月などに、あなたの愛を誓ったりなさらないで…」
「では、何に誓えばよいのですか?」
「誓いなどいりません。でもどうしてもとおっしゃるのなら、あなた自身に誓ってください」

このシーンの台詞に、あの三日月の晩のふたりをダブらせていた。
映画の中の恋人同士は運命のいたずらに翻弄され、お互いを情熱的に愛するが故に悲劇的な結末を迎える。
やっぱり、もう一度だけ滝沢くんに会いたい。
こんな中途半端な気持ちじゃ、芝居のことなんてなにも考えられない。
だけど…今の私には彼とどう向き合っていいのかさえ分からなかった。

稽古に身のはいらない私の事を、アキラは心配しているようだった。
「身体が辛いのなら、無理するなよ。お前の代わりはいないんだから…。」
そう言ってくれたが、アキラには彼のことを話せなかった。
ましてや、私が行方を眩ましていた間に、アキラが彼に会いに行っていたなんて全然知らなかった。

滝沢君と会えなくなってから、1ヶ月が過ぎようとしていた。
その日は、稽古が休みだったので一日中バイトに明け暮れていた。
夕方頃から急に店は混雑してきたので、いつもは厨房に引っ込んだままの私も珍しく客の対応にかり出されていた。

そして、奥のテーブルに客を案内して戻ろうとした時、隣のテーブルに偶然にも滝沢君が座っていた。
彼のほうも驚いたように私を見ていた。
「真珠(まじゅ)、しばらくぶり…元気そうだね。驚いたよ、ここでバイトしていたんだ。」
「あ、そうなの。滝沢君も今日は仕事じゃないんだ。」
「うん。今日はこいつが…あ、こいつ俺の友達で“今井 翼”っていうんだけど、こいつがいい店があるからって連れて来られたんだ。」
そう言って紹介された翼君は私に向かってぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。いつも滝沢から聞いているから、初めて会った気がしないな。よろしく!」と言って微笑んだ。
「おい、余計なこと言うなよ。」彼は慌てて翼君を睨んだ。

奥ではそんな私達の様子をシェフが見ていた。
私は突然の出来事にかなり動揺した。
ずうっと元気がなかったのに、今度はとたんに動きがぎこちなくなったりして…皿を割ってしまったり、仲間にかなり迷惑をかけてしまった。

滝沢君は帰り際、私に声をかけてきた。
「今日は本当に知らなかったから、ごめん。迷惑じゃなかったら、また来てもいいかな? この店、かなり気に入ってるんだ。」
「そんな…ごめんだなんて…。私のことなら大丈夫だから、又きてください。」そう答えるのがやっとだった。
そして、滝沢君たちが帰っていくのを見送って、私は深く溜息をついた。

その夜、店を閉めた後、私はシェフに呼ばれた。
シェフはいつもどおり優しかった。
「最近、元気がないように見えたんだけど、体調はどうなの?」そう聞いてきた。
「あまりよいとは言えないけれど、まだ大丈夫です。芝居だって続けているし。」
「このあいだ、真珠(まじゅ)が来る前にアキラが相談にきたんだよ。最近、真珠(まじゅ)がとても元気がないって。」

私たちの舞台を見にきた時にシェフとアキラは意気投合して、それ以来時々、私の知らないところで飲みに行ったりして親交を深めているらしい。どうやら、私の話しをよく酒の肴にしているみたいだった。

「アキラは気にしすぎだと思う。もともと私は気分にむらがあるほうだし、役に没頭するとそんなふうになることもあるもの。」
私が話しを流そうとすると、シェフはこんなことを言った。
「今日来ていた彼のこと、真珠(まじゅ)は好きなんだろう?」
私は慌てていた。すると、シェフは更に話しを続けた。
「真珠(まじゅ)が行方不明になっていた時、アキラは彼に会いにいったらしい。それで、彼が真珠(まじゅ)にふられたことを打ち明けたってあいつは言っていた。真珠(まじゅ)が好きなのに無理しているってアキラは心配していたよ。好きな人にどうしてつっぱねるような真似をするんだろうってね。」

「私は…私はどうせ長くは生きられないから…誰かが私を好きになって、そのことで悲しむのが辛いの。私は滝沢君のことが好きだけど、両想いになってそれで彼が悲しんだり苦しんだりするのは嫌だから…。」
「でもそのことを受け入れるか、受け入れないかは、彼が決めることだろう? 真珠(まじゅ)が決めることじゃないよ。真珠(まじゅ)は悲しむ彼の姿を見たくないと言ったが、それは自分勝手な思いなんじゃないかな。どんな恋愛だって楽しいことばかりじゃない。それは真珠(まじゅ)だって十分わかっているだろう? 」
シェフはそう諭すように私に向かって言った。
「俺は、真珠(まじゅ)に後悔するような生き方はして欲しくないんだ。ふりかえった時に納得できるような人生を生きて欲しい。真珠(まじゅ)になら、それが出来るはずだから…。」一瞬、シェフの瞳が潤んだように見えた。
私はとても嬉しかった。
こんなにも、親身になってくれる人が側にいてくれたなんて。
アキラだってそうだ。私はひとりぼっちじゃないんだ。

帰る道すがら、私は今までのことをずうっと考えていた。
私はつまらない思いこみで、自分の価値観を滝沢君に押しつけていたんだろうか?
自分勝手な思いに真実を曲げて、綺麗ごとばかりの自分がとても嫌だった。

こんど滝沢君に会えたら…ありのままの私のことを話そう。
私が胸に抱えている爆弾と、そして彼に恋しているこの切ない想いのすべてを…。






真珠(まじゅ)と会えない毎日に俺は悶々としていた。
そして、1ヶ月が過ぎようとしていた頃、そんな俺を元気づけようと、翼が外に誘い出してくれた。

翼に連れて行かれた場所は、郊外にある洒落たトラットリアで、なかなかよい店だった。
そして、そこで俺はバイトしている真珠(まじゅ)と偶然にも再会した。
会いたい、会いたいと思っていたけれど、こんな偶然てあるんだろうか。
俺はふられたこともすっかり忘れて、内心、この偶然に歓喜していた。

帰り際、彼女を呼びとめて言った。
「今日は本当に知らなかったから、ごめん。迷惑じゃなかったら、また来てもいいかな? この店、かなり気に入ってるんだ。」
彼女は嫌なそぶりも見せず、
「また来てください。」と言って、店の奥へ消えていった。
前よりも少し痩せたように見える真珠(まじゅ)の後ろ姿が切なかった。
君がどう思おうと関係ない。
片思いでもいい、やっぱり俺は君が好きなんだ。

それから、二週間後くらいに、俺と翼はまたあのトラットリアを訪ねた。

遅めのランチをとろうと行ったのだが、真珠(まじゅ)の姿は見えなかった。
店の人に訪ねたら、その日は夜からの出勤らしかった。
俺は内心かなり緊張していたので、ちょっとがっかりした。
「なんだか、ここに来た意味がなくなっちゃたね。」
翼にすかさず指摘された。

でも、俺は諦めなかった。
その日の内にどうしても真珠(まじゅ)の顔が見たくて、仕事が終わると今度はひとりで、あのトラットリアに向かった。
もうすぐラスト・オーダーの時間を過ぎてしまうところだったが、なんとか間に合った。
真珠(まじゅ)は笑顔で迎えてくれた。
閉店間際の時間に俺は意を決して彼女に、
「待っているから、一緒に帰ろう。」と言った。
断られると覚悟していたのに、彼女の返事は意外なものだった。
「私も…話したいことがあるから、店の前で待っていてくれる。」
俺はうなずくと支払いを済ませ、店の前に止めた車の中で待っていた。

それから、30分もしないうちに真珠(まじゅ)は顔を見せた。
車を走らせて、俺達は真珠(まじゅ)のマンションの前にある例の駐車場にいた。

なんだか、この場所に来てしまったのは仕方ないけれど、ちょっと不吉な感じだ。
キスしたのもこの場所だったけれど、真珠(まじゅ)にふられたのもこの場所だった。
今夜は…これからいったい何が起きるんだろう。
期待と不安の入り混じった気持ちで俺は口を開いた。

「ねえ、話しがあるっていったけれど…なに?」
真珠(まじゅ)はためらいがちにゆっくりと話し始めた。
「私ね、今更かもしれないけれど、嘘をついていたんだ。それで、滝沢くんを傷つけてしまったから…ごめんなさい。」
「それだけじゃ、なんのことだかさっぱり分からないよ。」
「あなたのこと、興味があったし、淋しかったからあの晩一緒にいただけだと言ったけれど、それは嘘なの。淋しかったのは本当だけれど、それだけであんな風に引きとめたりしない。本当は滝沢君が好きだから、恋していたから、キスされた時も凄く嬉しかった。でも素直になれない事情があったの。だから…あんなひどい事言ってしまって、とても後悔したんだ。本当にごめんなさい。」
それだけ言い終えると、真珠(まじゅ)は辛そうに俺から目をそらした。

「私…多分もうあまり長くは生きられない。生れつき心臓が悪くて、21歳の誕生日を迎えられたのも奇跡だって言われた。でも、こんな私でも…滝沢君のこと好きなままでいさせて欲しいの。あなたに愛して貰いたいなんて思わないから、そんな残酷なこと…私は望まないから。ごめんね、でも好きでいていいよね。」
「残酷な事? 俺が君を愛するのが残酷だなんて誰が決めたの? 君を愛している事と、君の時間があとどれくらいかなんて関係ないことだよ。俺達はお互いに愛し合っているし、それを邪魔するものなんて何もないよ。」
俺は真珠(まじゅ)の細い肩を抱きしめた。

真珠(まじゅ)は俺を見つめると、なんとも言えない優しい笑顔をむけた。
そうなんだ…この彼女の笑顔や勝ち気な瞳に俺は恋していたんだ。
君は人一倍傷つきやすくて…それを自分自身で守ってきた君は…
本当はとても強い人間なのかもしれない。

その夜、今度こそ本当に俺達は結ばれた。

俺は真珠(まじゅ)に
「今夜はずうっと一緒にいよう。」と言った。
真珠(まじゅ)は
「うん。でも淋しいからじゃないよ。」と言って微笑んだ。

硝子細工を抱くように、壊れてしまいそうな彼女を抱きしめた。
窓から見える空にはジャスミンの月が浮かんでいた。
その白い光りは優しくふたりを包んだ。
今の俺には、先のことなど何も考えられなかった。

でも、ふりかえるときっと、もうあの時から君は…考えていたのかもしれない。
どうしたら君が俺の心のなかで生きつづけられるか…。
君といた記憶が永遠に俺の中で輝きつづけるすべを…。





つづく



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