第7章 |
2004年1月 有羽 作 |
次の日、いつもと同じように平気な顔でドラマの現場へ向かう筈だった。 でも無理だった。 私の心はパニックを起こしてしまったんだ。 朝起きて…それから後の事はよく覚えてはいない。 ドラマの現場にも、舞台稽古にも行かず、空っぽの心を抱えたまま街をさまよっていた。 私が行方を眩ましている間、所属事務所や友人達は必死になって心当たりの居場所を探していた。 ドラマの現場では取りあえず、“高熱で起き上がれない状態”ということになっていたらしい。 そして、現状を知っている何人かの人間のうち、舞台仲間の“井上 アキラ”は血眼になって私を探していた。 バイト先、よく通っていたカフェ、映画館、図書館、街中…果てには救急病院にまで片っ端から電話したみたいだった。 そして行方不明になった朝から、三日目の晩にアキラに連絡をした。 アキラは開口一番に私の身体のことを聞いて来た。 ‘どこもなんともない’と言ったら、その後、ものすごい勢いで怒鳴られた。 ‘居なくなった理由は知らないが、お前が一番したいのは芝居じゃなかったのか!’そう怒鳴られたけれど、アキラは泣いているみたいだった。 ‘とにかく早く無事で戻ってきてくれよ…。’そう言った。 ごめんね、馬鹿で…。 時々自分の中でバランスがとれなくて、全てを投げ出して逃げてしまいたくなるの。 私の時間はあと少しなのに、どうして大切に生きられないんだろう? 自分自身をもてあまして見失って、大切な人間を悲しませてばかりいる。 不思議な事にこの三日間、初めてもらったセリフが頭の中をグルグル回っていた。 初めて私が与えられたセリフは、“有名になって成功したい”と街に出て行こうとしている恋人に向けて言うセリフだった。 ‘どうして平凡じゃ駄目なの? 平凡な人生にだって幸せはあるわ。私はそれで十分満足なのに…。’ 来る日も、来る日も、このセリフを舞台の上で語りかけた。 それは相手役に向かってばかりではなく、自分自身への問いかけだった。 そうだった。このセリフは亡くなった演出家の西崎さんから、私へのメッセージだったんだ。 ‘真珠(まじゅ)、真の役者になるのは大変なことなんだよ。もしも、君がこの道を選ばなくても生きていけるのなら…素敵な恋をして、芝居なんてしなくても幸せになれるのならば、そのほうがきっといいに決まっている。’ 西崎さんの私への思いに涙がこぼれそうになった。 私がこのセリフの隠されたメッセージに対する答えをだしたのは、それから4年も経った今日のことだった。 また滝沢君の悲しそうな瞳が頭に浮かんだ。 私にもっとたくさんの時間があれば…いつか素敵なひとが現れて、全てを投げ出しても惜しくないほどの恋に落ちたのなら…芝居なんてどうでもよくなってしまっていたに違いない。 でも、私の命に残された時間はわずかだから、愛されることがとてつもなく怖かった。 そしてそれでも彼を愛しているから…胸の中で祈った。 ‘神様、お願いです。彼の傷が浅いうちに、私の事なんて早く忘れてしまいますように…。’ 私の命を輝かせるものはきっと芝居しかない。 その時の私はまだそう固く信じていた。 昨夜の衝撃的な真珠(まじゅ)の言葉が、俺を一気に奈落の底へと突き落とした。 今でも、あれが夢であってくれればいいのにと、心のどこかで思っていたんだ。 真珠(まじゅ)は今日は撮影現場に現れなかった。 すぐに連絡が入らなかったようで、一時はスタッフ達のあいだで騒いでいたが、数時間後、本人ではなく所属事務所から連絡が入ったようだった。 なんでも、体調不良で高熱を出して動けない状態らしい。 昨日あんなことがあった後なので、とても気になっていた。 撮影所で簡単な夕飯を終えた頃、俺を訪ねて、ひとりの青年がやってきた。 どこかで見かけたことのあるその青年は“井上 アキラ”と名のり、真珠(まじゅ)の友人だと自らの素性を明かした。 彼の声を聞いて、俺は以前、真珠(まじゅ)を舞台の稽古場に送って行った時のことを思いだした。 あの時、スタジオの奥から聞こえてきた大きな声が彼のものだったことに今気がついていた。 彼は少し息を切らして、額にもうっすらと汗をかいていた。 そして、昨日の真珠(まじゅ)の様子を聞いてきた。 ゆうべ真珠(まじゅ)とふたりで会ったと言ったら、彼はその時のことを執拗に聞いてきた。 本当は昨夜のことは誰にも話したくなかったが、彼のただならぬ様子から、真珠(まじゅ)に何かあったことは間違いなかった。 「やっぱり、真珠(まじゅ)に何かあったんですか? 実は俺、彼女にふられたんですよ。その前に俺の気持ちを伝えて真珠(まじゅ)も俺と同じ気持ちだと思っていたのに…ゆうべ、彼女の口から‘共演者としてだけつきあって行きましょう’って言われたんです。」 俺はやっと重い口を開いた。 「そうだったんだ。でも、きっとそれはあいつの本心じゃあない。あいつはあんたを悲しませたくないと思ってそんなこと言ったんだ。あいつ、生れつき心臓が悪くて…二十歳まで生きられないって医者に言われたんだ。本当は芝居なんてやっていられる身体じゃないんだ。」 いきなり頭をなにかで“ガツンッ”と殴られたような衝撃を受けた。 俺の動揺している様子を気にも止めずに、彼は更に話しを続けた。 「今朝から真珠(まじゅ)の奴、どこに行ったのか、行方が分からないんだ。表向きには高熱で寝こんでいることになっているけれど、今まで必死に探したけれど、どこにもいない。あんたが居場所を知っているんじゃないかと思って来てみたんだけれど、どうやら無駄足だったみたいだな。仕方ない…別のところを探すか…。忙しいところお邪魔してすみません。なにか分かったら、ここに連絡してください。」 そう言いながら、彼は電話番号をメモに走り書きして俺に押しつけると、背中を向けて走り去って行った。 俺はどうすることもできなかった。 ただその晩から毎晩、仕事が終わると真珠(まじゅ)のマンションの前から彼女の部屋を見上げた。 彼女の部屋は灯りが消えたままで、住人が不在である事を伝えた。 何回か、もらった電話番号にも連絡をしたが、真珠(まじゅ)の居所は分からないとそっけなく言われた。 もう、何をしていてもうわの空で、不安な気持ちのまま三日が過ぎようとしていた。 その晩もう一度、もらったメモの番号に電話をした。 どうやら真珠(まじゅ)は無事で、彼の所に連絡が入ったらしい。 よかった…胸のつかえが一気にとれたような気分だった。 でも、それと同時にいいようもない淋しさがこみあげて来た。 俺は真珠(まじゅ)の何に恋していたんだろう? そして、彼女のいったいなにを知っているんだろう? 自分の無力さに打ちのめされていた。 あの晩、‘淋しいから帰らないで’と言った彼女の瞳の奥に映っていたものはなんだったんだろう? そこに映っていたものは、果たして俺の姿だったんだろうか? 今思うと、必死で自分の生きる意味を求めている彼女の瞳に恋していた。 めまぐるしく流れていくこの世界の中で、真珠(まじゅ)は自分を見失わぬように必死で生きている。 そんな君の命があとわずかだなんて…。 それを知ったからって、無力な俺にはただ、君を想いつづけるしかできることはないんだろうか。 ドラマの現場には何事もなかったかのように復帰した。 ただ…以前と違うのは滝沢くんとの関係だった。 普通に挨拶も交わしたし、世間話もした。 でも、ふたりだけになることはほとんどなかった。 というよりは、私が避けていた。 でも、時々彼の優しいまなざしを感じて…気持ちは動揺した。 あんなひどい事を言ったんだもの、嫌われていて当然だ。 普通に接してくれるだけでもありがたいのに…やっぱり辛かった。 早くこの仕事が終わればいいんだ。 きっと顔を見なくなれば、お互いに忘れてしまうに違いない。 そんな辛い夏も終わり、秋の気配が近づいて来た頃、やっとドラマの撮影もクランク・アップを迎えた。 最後の打ち上げと称した飲み会に、私は参加しなかった。 監督をはじめとしたスタッフ、キャストとはとても名残惜しかったけれど、少しでも滝沢くんと顔をあわせることが辛かった。 そう、私はその後に訪れる本当の辛さ…“彼と会えない辛さ”をその時は予想していなかった。 |
つづく
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