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第5章
2004年1月
有羽 作


恋する気持ちに気づいてからも、俺は努めて平静を装った。
でも、時々自分の行動に驚いたり、戸惑ったりした。
幾つになったとしても、きっとこれからも、恋をするたびにこんな事を繰り返すんだろう。
そう、恋する気持ちはいつだって無垢だ。

もう、8月になったが真珠(まじゅ)は夏はあまり得意じゃないみたいだ。
撮影が押してくると、時々、疲れが溜まってきているのか辛そうな顔をしていた。
そんなになるまで頑張る真珠(まじゅ)がけなげで、愛しく思えた。

今晩もスタッフとキャストで飲み会があるらしい。
俺は別の仕事が入っていたが、急いで切り上げて途中から参加することにした。
十代の頃には分からなかったけれど、成人してお酒を飲むようになってからは、更にスタッフとの距離が縮まった気がして嬉しかった。
皆でひとつの作品に携わっているという意識、皆で作り上げる喜び、絆を強く感じていた。

やっと取材を終えて、いつもの店に顔を出すと、もうすっかり全員出来あがっている様子だった。
俺は店の中を見まわすと、真珠(まじゅ)の姿を見つけて、彼女の近くの席に座った。

「お疲れ様。ビールでいいかな?」
スタッフがそう俺に声をかけ、冷たいグラスを手渡してくれた。
「なんかさあ…タッキーが入ってきたら、真珠(まじゅ)ちゃんの顔が変わったんだけれど…ねえ、どういうこと?」
真珠(まじゅ)はさかんにスタッフの一人に冷やかされて、困った顔をしていた。
「ほら、真珠(まじゅ)が可哀想だろ。俺だってタッキーが来て嬉しい顔したよ。みんなタッキーが好きなんだよ。なあ?」
監督はそう隣のスタッフに話しかけて、彼女に助け舟をだした。
それからはもう何が何だか訳が分からないくらい、騒いだり、飲んだりした。
俺は内心ちょっと嬉しかった。
真珠(まじゅ)が俺を見て嬉しそうな顔したなんて…。本当なんだろうか。

帰り道、気がつくと、いつかと同じようにタクシーの中に真珠(まじゅ)とふたりきりだった。
もうすぐ真珠(まじゅ)の住んでいるマンションが見えてくる。
「送っていくよ。」俺がそう言うと、彼女は素直に
「ありがとう。」そう答えた。

タクシーから降りると俺達は前に真珠(まじゅ)が酔っ払って座り込んだ、あの駐車場にいた。
「今夜は星がいっぱい見える。」
案の定、真珠(まじゅ)はそう言って、タイヤの跡の残るコンクリートの上に座り込んだ。
俺も彼女の隣に腰を降ろすと、夜空を仰いだ。
西の空にはっきりと三日月が輝いていた。

俺は胸の中で決断していた。
今夜、真珠(まじゅ)に自分の気持ちを告げるんだ。
そしてそのタイミングはまさに今しかなかった。
‘今夜彼女に伝えるんだ。そうしなければ、お前は本当に格好悪いぞ…’
心の中でもう一人の自分が呟いた。

この広い世界の中で、生涯のうちにたった一人だけ存在するであろう運命の恋人。
誰もが皆、自分が向かうべき真実の相手と巡り逢うことができるんだろうか。
もしも彼女が俺と反対側の道をすれ違って行ってしまったら…そう考えただけでこの胸は張り裂けそうになる。
今夜、真珠(まじゅ)に胸の内を伝えてしまわなければ、きっと一生後悔するような気がしていたんだ。

「あの時と同じだね。」
俺は早まる胸の鼓動を落ちつかせるように、そう言った。
「うん、でも今日は月が見える。ねえ、いいこと教えてあげる。“新月か三日月の晩に始まったことはうまくいく”っていう、言い伝えがあるんだよ。」
真珠(まじゅ)は得意そうに言うと、俺のほうに向き直して、
「ねえ、不思議じゃない? きっと、地球との間の引力が…」
真珠(まじゅ)が全てを言い終える前に、俺は彼女の肩を引き寄せて、次の言葉をキスでふさいだ。

身体を離すと真珠(まじゅ)は、びっくりしたように大きな瞳を見開いて俺を見つめた。
その晩の俺はいつもと違っていた。
自分でもよく分からないが、心の枷をすべてなにかが取り除いてくれたように正直になれた。

「俺は真珠(まじゅ)のことが好きなんだ。それに…三日月の晩に始まった恋なら、きっとうまくいくよ。」
そう囁いて、彼女を抱きしめると再びキスをした。
真珠(まじゅ)はなにも言わなかったけれど、俺の背中に腕をまわしてきた。

真夜中の、しかも路上で、俺達は座り込んだままキスしていた。
好きだという気持ちは、きっと誰にも止められない。
そして、彼女の俺に対する気持ちに“淋しさ”という加速がついていたことも…
その時の俺にはまだ気づけなかった。

次の日、俺は真珠(まじゅ)の部屋で目が覚めた。
「淋しいから帰らないで…。夜が明けるまで側に居て欲しいの。」
そう言って、切ない瞳で俺を見つめる彼女を置いて、帰る訳にはいかなかった。
そして、俺も真珠(まじゅ)の側にただいたかった。

目が覚めるともう彼女の姿はなく、ベッド・サイドにメモが残っていた。
‘舞台稽古に行ってきます。鍵は明日、スタジオで返してくれればいいです。真珠(まじゅ)‘
それだけしか書かれてはいなかった。
きっと、時間がなかったんだろう。
俺を起こさぬよう、そっと出掛けて行った彼女を思った。

ちょっとだけ頭が重かったけれど、気分は晴れていた。
昨夜の高揚した気持ちをまだひきずっているのかもしれない。
狭い部屋だったが窓が大きく、日当たりのよい明るい部屋だった。
ベランダからは大きな公園の緑と昨日の駐車場が見えた。

子供の笑い声と、小鳥のさえずりと、自動車のクラクション。
なにもかもが真珠(まじゅ)がいつも見ている景色だと思うと、愛しく思える。
恋をすると世界中が輝いて見えるのかもしれない。
真珠(まじゅ)…心から君のことを愛しいと思う。
だからほら、こんなにも世界は美しい。
俺は願った…この世界がずうっと変わらずにいることを。
そして、俺の見ている風景には君がずうっと存在していることを。

俺は身支度を整えると、あたりを見まわし、彼女のマンションを出た。
車を拾って自宅へ戻ると、しばらくして携帯の着信音が鳴った。
翼が今から遊びに来ると言う。
本当は貴重な撮休だったが、しぶしぶ来訪を承諾した。
というのは、表向きで…本当は真珠(まじゅ)とのことを話したくて仕方なかった。

電話を貰って、30分もしないうちに翼はやって来た。
本当は夕べのうちに近くまで来ていて、何度も連絡したらしい。
朝帰りの事実も、あっという間にばれてしまった。
でも、真珠(まじゅ)とのことはこの間会った時以来、ほとんど話していなかったので、いきさつを知った奴はかなり驚いていた。
「告白した晩の翌朝に朝帰りなんて…急展開じゃない? 眠いところをお邪魔しちゃって、御免。ほんと、この幸せ者…。」
そう言って翼は俺を肘でつついた。
なんだか奴は勘違いしているみたいだったけれど、俺はそのことについては何も言わなかった。

‘淋しいから帰らないで’と言った彼女の真意は俺には分からない。
夕べ俺は、ただ真珠(まじゅ)の側にいた。
一晩中彼女の肩を抱いてベッドの上にただ座っていた。
俺が関係を求めたとしても、真珠(まじゅ)はきっと拒んだりしなかっただろう。
でも好きだからって、むやみに抱いたりしたくなかった。
もっと大切に、お互いの気持ちを育んでいきたいと思った。

「ドラマよりもみものだな。ねえねえ、なんて言って口説いたんだよ?」
翼はそうしつこく聞いてきたが、それだけは絶対に口を割らなかった。
それは俺と真珠(まじゅ)だけの秘密だ。
知っているのは、俺と真珠(まじゅ)と…あの晩、西の夜空に浮かんでいた三日月だけだった。







つづく



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