願い・・・ 第9章 whereabouts |
2003年2月 有羽 作 |
まさか、こんなところに秀明が現れるなんて、夢にも思わなかった。 眩しい光を感じ振り向いた先に彼は立っていた。 彼の部屋にはあの人がいて、私は後ろめたい気持ちから思わず‘私たち、いい友達になれそうね。’なんて心にもない言葉を口走ってしまった。 そんなことできるはずがないって、この私自身が一番わかっているのに。 月だけが見守るこのテラスで彼は私を抱きしめた。 夜の冷たさの中で彼の温かいぬくもりがどんどん私に押し寄せて、息ができなくなりそうだった。 抗えない強い力で引き寄せられて、彼が首筋に顔を埋めようとした瞬間、かすかに耳たぶに彼の柔らかいくちびるがかすめた。 その感覚と首筋に感じる暖かい彼の息遣いがドクドクと私の中に入り込んで、それはいつしか波打つ私の心臓の鼓動と重なっていった。 「ごめん。」それだけ言って彼はそっと夢のような時間と空間から姿を消した。 私はしばらくその場に立ち尽くしていた。 どうして今頃になって日本に帰国してしまったのだろう。 帰らなければ秀明に再び逢うこともなかったのに。 毎朝、見ていたあの悲しい夢。 苦しいのは夢の中だけでよかったのに。 それでも、もう一度だけあの優しいまなざしと温かいぬくもりを感じたいと願ってしまった。 たとえ、彼が懐かしさと気まぐれから私を抱き締めただけだとしてもそれでもよかった。 切なくて、不安定で、泣きそうなくらい揺れる気持ちを抱えながら愛していた。 でも幸せだったあの頃。 あれから同じ気持ちを抱えていたけれど、私の愛は行き場を見失っていた。 踊ること、そしてシュウの存在がいつも私を励ましてくれた。 いけないことだけれどそれら全てを引き換えにしてもあなたが欲しかった。 一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に強い自己嫌悪を感じてその場に立ち尽くしていた。 夜は深々とふけて、月は相変わらず河の水面を照らしていた。 私は悲しい夢から目覚めようとするかのようにやっとの思いで、その晩は自分の部屋へ戻った。 次の日は昼近くからのロケだったので少しゆっくり過ごすことができた。 秀明となみさんの様子がおかしかった。 早めのランチを取ろうとホテルのロビーの横にあるレストランに私は座っていた。 ふたりがエレベーターから降りてきたのが見えた。 彼女は真剣な表情でなにか彼に告げるとそのまま振り返りもせず、来たときと同じ荷物を持ってエントランスに待たせていたタクシーに乗り込み去っていってしまった。 その姿を秀明は放心したように見送っていた。 そしてまたエレベーターに乗り込むと、撮影のときまで姿を見せることはなかった。 今日は午後からウエストミンスター・カセドラルの中での撮影だった。 やっと撮影許可のおりたこの大聖堂は本当に厳かな美しさがあり、私はただただ感動していた。 秀明の様子が気になったけれど、彼はいつもの彼だった。 昨夜のことを思い出すと私のほうが冷静さを失いそうだった。 彼の目をみると、ひとりでに胸の鼓動が速くなって頭の中が真っ白になりそうなのを必死でごまかしていた。 待ち時間に何気なく彼に今朝のことを言ってみた。 「なみさん帰ってしまったの?今朝、レストランにいたらふたりがエレベーターから降りてくるのがみえたの。」 「俺、ふられちゃったんだ。」 秀明は顔色も変えずに私にそう言った。 そして、こう言葉を続けた。 「ゆうき、昨夜ピアス失くしたでしょ・・・パールのやつ。片方だけないはずだよ。俺のシャツに引っ掛かっていたのかも・・・。それをなみが見つけた。」 「踊っているときに落としたのかと思っていたの。それで・・・なんとか言い訳しなかったの?」 「あいつ、すぐにゆうきのものだと分かったみたい。でも昨夜、俺があんなことしなければもめる原因にもならなかった訳だし・・・この際だから言うけれど一時の感情でゆうきを抱きしめたんじゃない。それだけははっきりさせておきたくて。」 そう言う彼の言葉に次の言葉を見失ってしまった。 そんなことを今真剣な眼差しで告げられても私はなんて答えたらいいのだろう・・・。 黙りこくってしまった私に、助け舟を出すようにスタッフの‘カメラ・リハーサルお願いします’の声がかかった。 秀明は相変わらず何事もなかったかのように淡々と自分の持ち場についた。 ◆ なみと俺とのこの一年はなんだったのだろう? 苦しい気持ちを紛らわすためだけの関係? いや、彼女ならきっと忘れさせてくれると思っていたんだ。 ゆうきと再会するまでは・・・。 ゆうきと会っていた夜が明けたその朝、なみはさっさと起きて自分の荷物や俺の脱ぎ散らかした洋服やらを片付けていた。 俺も眠い目を覚まそうとシャワーを浴びバスルームから戻ってくると、なみはホテルの部屋の床にそのまま座り込んでいた。 俺のシャツを掴んだままその場に俯いて座り込んでいる。 そして、彼女の肩は何かに耐えるかのように小刻みに震えていた。 「どうかした?どこか具合でも悪いの?」 彼女は黙って、ただ右手のこぶしを握り締めて、それを俺に向かって差し出した。 俺は彼女の閉じられた手のひらをそうっと開かせた。 彼女の手のひらはうっすらと汗ばんでいて、そこには見覚えのあるパールのピアスが一粒、白く淡い光を放っていた。 「ゆうきさんに返しておいて・・・。」 彼女はそれだけ言うと黙って帰り支度を始めた。 「ごめん。でも言い訳はしないよ。君がどう思ったか分からないけれど、昨夜ゆうきと会っていたのは事実だし、何もなかったとは言えない。君にはすまないと思っているんだ。」 「秀明、優柔不断なのもいい加減にしたほうがいいわ!あの人のことを本当に愛しているなら恥も外聞も捨てて追っかけていけばいいじゃない!私に義理を感じているならそれは勘違いよ。私は私だけを見てくれる人じゃないと愛せない。あなたに情けをかけてもらうほど馬鹿な女じゃないわ。そんな男、こっちから願い下げよ。」 そう言ったなみの瞳がきらりと光った。 彼女は車を呼んでもらうようロビーに連絡すると、そそくさと身支度を整えた。 「下まで送るよ。」 そう言う俺の言葉が聞こえないかのようになみは押し黙っていた。 俺は彼女の荷物を持つと彼女のあとについてエレベーターに乗り込み、エントランスのある一階で降りた。 ロビーを通り過ぎたところで彼女は足を止めた。 「秀明、今までありがとう。最後にひとつだけ言わせて、強がりや意地を張ることだけが男らしさじゃないわ。本当のあなたはもっと違うはず・・・。本当のあなたで私を真正面からみて欲しかった。さようなら。」 そう言って踵を返すと振り向きもせず、待っていたタクシーに乗り込み走り去っていった。 後から知ったことだが、なみは俺とゆうきの関係を知っていたみたいだった。 おそらく、ゆうきのことを知っている事務所の誰かにそれとなく聞いていたのだろう。 それに俺の部屋には捨てられなかった十代の頃のゆうきの写真があちこちにねむっていた。 封印したつもりの辛かったけれど捨てきれない気持ちが俺の部屋のあちこちで苦しい呼吸を続けていた。 そう、6年もの間ずっと。 なみは何回かこの部屋に来たけれど、基本的には彼女の部屋か外のどこか別の場所で会うことのほうが多かった。 彼女がこの部屋に来たがらない訳も、今になってようやく分かった。 この部屋にはゆうきの幻影が住み着いていて、俺はそのゆうきの幻をずうっと抱きしめていた。 そんな部屋になみが来たがるはずがない。 煮え切らない俺と違って、なみは最後までかっこよかった。 俺の前で涙ひとつ見せることはなかった。 きっと、気づかないうちに何度も彼女の気持ちを傷つけていただろうに。 俺はやっと心を決めた。 そう今度こそ真正面からゆうきにぶつかって行こう。 6年前の決着を今度こそ着けよう。 それでゆうきに振られるのなら本望だ。 こんなこと考えるのは怖いことだけれど、もしも拒まれたら、今度こそ綺麗さっぱり忘れられるんだ。 そう思うと久しぶりに晴れ晴れした気持ちで仕事に出掛けた。 現場では今朝の様子を見ていたゆうきが腫れ物にでも触るみたいに接してきた。 でも、俺は昨日までの俺とは違う。 ゆうきは戸惑っているみたいだった。 ここが仕事場じゃなかったら・・・俺は大きな声で君のこと、‘愛している’って言いたいのに。 ◆ ロンドンでの長い撮影は終わった。 そして、東京での撮影もスムーズに進み、映画の撮影はクランク・アップを終えた。 私は再びイギリスに戻る暇もなく次に始まる公演に備え、シュウと共に東京のホテルに滞在していた。 東京の街は早くもクリスマスの飾り付けで彩られ、ホテルから見える街の景色はたとえようもなく美しかった。 秀明と顔を合わせなくなってまだ、一週間と少ししか経っていないのにシュウの顔を見ては彼のことばかり考えていた。 ‘一時の感情でゆうきを抱きしめたんじゃない’そう言った彼の言葉の意味を考えていた。 「ねえ、ママ。ママはあのおにいちゃんのことが好きなんでしょう?」 シュウが唐突にそう聞いてきた。 「なに言っているの?翼くんとママはシュウが生まれるずっと前から親友なんだよ。」 「違うよ!翼くんと一緒にいたあのかっこいいおにいちゃんのこと。僕知ってるんだ。ママのことは何でもわかるんだから。」 シュウは得意げにそういうと私の顔をじっと見ていた。 入念な打ち合わせの日々が過ぎいよいよ今晩から劇場の幕が上がる。 別の幾つかのカンパニーから誘いを受けていた。 水村梨乃としての本来の姿を発揮できるところなら私はどこにでも行ける気がしていた。 ただ、たったひとつ、彼・・・秀明のことを除いては。 活躍の場によっては彼に会えなくなってしまう。 今のように日本で公演できるとは限らないからだ。 そろそろ劇場へ向かう仕度をしなければいけない。 さっきまで、窓の外の美しい様子を瞬きもせずスケッチブックに描いていたシュウの様子がすこしおかしかった。 真っ赤な顔をしてぐったりとしている。 額に触れて、私は心臓が止まりそうになった。 ものすごい熱だった。 慌てて、お医者様に来てもらうよう連絡した。 医師の診察が終わり、ただの風邪だということが分かり少し安心した。 薬を飲んだシュウは赤い顔をしていたがぐっすり眠っていた。 いつもシュウを見ていてくれた親友のシルヴィーは今回来日していなかったが、具合の悪いシュウを残してとても出掛けるわけにはいかなかった。 仕方なく私は翼くんに連絡してみた。彼は喜んで来てくれると言ってくれた。 翼くんの訪問を待っていた私はうとうと居眠りをしてしまった。 夢の中で秀明が語りかけて来た。 そう思っていたところで部屋の呼び鈴が鳴り、目が覚めた。 まだ夢の中にいるのかと思ってしまった。 だって目の前に本物の秀明が立っていたから。 「どうしたの?」 「シュウくんの具合はどう?翼が電話してくれたんだ。あいつ用事ができて代わりに俺が来た。」 「そうなんだ。ありがとう。お医者様にみせたし、薬を飲んで今は眠っている。熱も少しさがったみたい。」 秀明はベッドで眠っているシュウの横にソファーをずらし座った。 そして、シュウの寝顔をじっと見ていた。 私は胸の鼓動が少しずつ速くなるのを抑えられなかった。 だって、シュウは彼の血を分けた子供だから。 「ゆうき、出掛けるのでしょ?ゆうきが帰るまでここにいるから安心してよ。」 「あなたにこんなこと頼むことになるなんて・・・ごめんなさい。」 「そんなことを言っている場合じゃないでしょ。それよりも心配しないでいいステージにしてくれよ。シュウくんもきっとそれを望んでいるよ。」 私は秀明とシュウをホテルの部屋に残して、拍手と喝采の待つステージへと足を向けた。 私は母親失格の女だ。 でも、シュウを・・・秀明を愛している気持ちだけは大切にしたかった。 そしてその思いが私をステージに向かわせる原動力になっていた。 ◆ ゆうきが出掛けてから、3時間ほど経った。 窓の外はもうすっかり暗くなっていた。 どことなくゆうきの面影とダブって見えるシュウの可愛らしい寝顔を俺はあきもせずに眺めていた。 俺の心は決まっていた。 この子がたとえ誰の子であろうともゆうきの血のつながった子供であることには変りは無い。 ゆうきが誰よりも愛しているこの小さい存在を俺も愛したいと強く思った。 まだ少し熱を帯びているようなその瞳を彼はやっと開いた。 そして驚いたように真ん丸い目をして、俺のことをじっと見つめた。 「ママは?ママはどこに行ったの?」 かすれた声で彼はそう聞いてきた。 「ママは今日から始まるステージの為に出掛けたよ。俺が代わりにシュウくんといることになったんだ。俺の名前は滝沢秀明。前に少しだけ会った事があるけれど覚えている?」 シュウはこくりと頷くと再び俺の顔を穴が開くほど見つめてきた。 「そんなに見られるとなんか照れちゃうな・・・。」 思わずそうつぶやいた。 すると、シュウは俺から目をそらさずにこう言った。 「僕、早く大きくなってママと結婚するんだって決めてた。でも親子じゃ結婚できないんだって。ねえ、滝沢くんはママとは友達なの?ママのこと好き?」 「俺は君のママのことが凄く好き過ぎて、友達にはなれなかったんだ。」 俺はこんな年端もいかない子供の質問に大真面目に答えていた。 「ふーん。すごく好きだと友達になれないんだ。翼くんとママは友達なのにね。よくわかんないや。」 そして彼は立て続けにドキリとすることを言ってきた。 「滝沢くんは本当は僕のパパなんでしょう?」 俺は戸惑った。 「ママがいつも寝ている僕を起こすときに、ここにキスするの。」 シュウはそう言って左目の下にひとつだけある小さなほくろを指差した。 「なんでいつも同じところにキスするの?って聞いたんだ。そしたら、僕のパパも同じところにほくろがあって、ママはそれが大好きだったんだって。」 俺の胸は騒ぎ始めた。 単なる偶然だったとしても、可能性はある。 それにもしもシュウが俺の子供だったとしたら、あの日理解することができなかったゆうきの気持ちが分かるような気がした。 「俺が君のパパかどうかは、俺にも分からない。それは君のママだけが知っていることだから。でも、俺は今でもゆうきのことを愛している。だから、シュウくんのことも愛したいし、本当の親子になりたいんだ。」 そう言うとシュウは目を擦りながらこう言った。 「難しくってよく分かんない。でも、ママが幸せになれるならそれでいいや。ママはね、何にも言わないけど滝沢くんのこと好きなんだよ。・・・僕、また眠くなってきちゃった。眠っていいよね?ママが帰ってくるまで絶対に帰らないでね!」 シュウはそう言うと俺のセーターの袖を掴んだまま、再び可愛い寝息をたて始めた。 気がつくとそれからだいぶ時間が経っていた。 俺も眠ってしまっていたが、ソファーから崩れ落ちそうになり目が覚めた。 シュウのベッドの向こう側にはシュウと顔をくっ付けるようにして、床に座り込んだままのゆうきが眠っていた。 帰ってきてから、着替えもせずにコートだけを脱いだまま眠ってしまったのだろうか。 きっと相当疲れていて、シュウの顔をみたとたん安心して眠ってしまったんだろう。 俺は羽の様に軽い彼女の体をそっと持ち上げると、となりのベッドに慎重に横たわらせた。 それでも、疲れきっているはずの彼女ははっとして目を開けた。 「あれ、私、眠っていたんだ。」 そう言って自分の額に手をあてた。 俺はゆうきの顔を上から覗き込むような姿勢で彼女に話しかけた。 「疲れているんだよ。そのまま眠っていていいよ、俺はそろそろ帰るから。そうだ、明日・・・」 そう言いかけたところで俺は言葉を失った。 ゆうきが俺の首に両腕を廻してしがみついてきた。 思ってもいなかったことに俺は動揺していた。ゆうきは泣いていた。 「帰らないで!もう二度とあなたと離れて生きていけない。あなたを裏切って虫が良すぎると言われても仕方ない。でも、愛しているの。そう、イギリスで暮らしていた6年のあいだ、秀明のこと考えない日は一日もなかった。」 俺は黙ってゆうきを抱きしめた。 母となり自立した彼女がまぶしかったけれど、抱きしめたゆうきの体は昔よりもか細く頼りなく感じた。 それはゆうきの背負っている荷物の大きさのせいなのか・・・そうだとしたらその荷物を一緒に背負っていきたいと思った。 「あなたにはもう新しい恋人がいた。翼くんにはあなたが幸せで安心したと言ったけれど、それは嘘。本当は凄く悲しかった。自分はあなたに残酷な仕打ちをしたくせにね。わたしは終わらない恋をしてしまったの。だから、一生、片思いでいいと思った。でも、あなたの存在が私のすぐ側にあることがつらいの。もう私を愛せないのなら、はっきりとそう言って欲しい。そうしたら、もう二度とあなたの前には現れないから・・・。」 ゆうきは泣きじゃくりながらもきっぱりとそう言った。 「君の気持ちは痛いほどわかったよ。でも、俺の言葉も最後までちゃんと聞いてよ。明日、ふたりだけで会いたいって言おうと思っていたんだ。明日、きちんと君に告げようと思っていたのに・・・俺が言葉では言い尽くせないくらい君を愛しているって。ロンドンでのロケのあの夜、君を抱きしめたのは、一時の感情からじゃないって言ったのは嘘ではない。ただ、そのあと俺の背中をなみが押してくれたんだ。彼女には感謝している。俺は彼女を愛しているふりをしていただけなのに。君のこと忘れられない辛さから、なみを利用して、傷つけてしまった。」 「あなたは悪くはないわ。悪いのはみんな私。なみさんが負った傷も元々は私が悪いの。あなたのせいじゃない。」 ゆうきはそう言って悲しそうに目を伏せた。 「ゆうき、これから先何があろうとも愛している。だからもう泣かないで。そして、あの日いなくなった本当の理由を俺に聞かせて。シュウは俺の子供なんでしょ?」 俺はゆうきから体を離すと、ゆうきの冷たくなった手を握り締めた。 ゆうきの瞳は初めて結ばれたあの晩と同じように澄み切っていた。 つづく
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