Lylica第8章 |
2003年5月 有羽 作 |
リリカは怒ったような素振りで、駅へ向かう道を一人で行ってしまった。 久しぶりにやっと会えたのに、‘この前のメール嬉しかったよ’って告げようと思っていたのに、どうしてこうなってしまったんだろう? バイクに乗ることがそんなにいけないことなのかな? 心配してくれるのは嬉しいけれど、彼女の様子はいつもと違っていた。 何かに怯えているようにも見えた。 ちょっと電話はかけづらい。 でも、彼女からは何の音沙汰もない。 メールでもしようかな? でも、怒っていたみたいだし、あやまっちゃえば済むことだがとても気まずい。 そんな訳であれから二週間近く経ってしまった。 このまま、二度と会えなくなるようで怖かった。 今日は仕事が早めに終わった。 気づかれないように、図書館から少し離れた所に車を止めて彼女が出てくるのを待った。 一時間くらい待ったけれど、彼女は出てこない。 思いきって、中から出てきた司書らしき人に聞いてみたら、もうとっくに帰ったという。 俺は車を飛ばして彼女のマンションまで行った。 でも、灯りは消えていてまだ帰っていないようだった。 近くの駐車場に車を止めると、俺は彼女の部屋の前でとりあえず待ってみることにした。 待っている間中、彼女のことだけを考えていた。 初めて彼女の言葉を目にした時、俺はもう心を奪われていた。 実際に会った彼女は、あの詩を書いた人物とは思えないほど平凡で寂しそうな女性だった。 でも彼女はみるみる変わっていった。 いや、本当の自分を取り戻していったんだ。 本来のリリカは繊細で、奔放で愛らしい人なのに、小さな女の子のようにもろいところもあった。 そして、そんなところにもなぜか強くひかれた。 今夜は特別に寒い夜だった。 彼女に会えずに、こんなところで一人寂しく待っている俺に天の神様がきっと意地悪しているんだろう・・・ちらほら白いものが空から降って来た。 ここには屋根があったが、それは冷たい夜風と共に容赦なく俺の上にも舞い降りてきた。 時計を見て、溜息をついた瞬間に奇跡はやっと起こった。 エレベーターのドアが開くと中から俺の天使がおりてきた。 その天使は俺の顔を見ると、驚いてこう言った。 「どうして・・・いつからここに居たの?」 「いつからだろう。たぶん二時間ぐらい前からだと思う。でも、どうしても会って謝りたかったんだ。」 「馬鹿ね。謝るのは私のほうなのに・・・。こんなに冷たくなっちゃって、風邪ひいちゃうじゃない。」 リリカはそう言って、ハンカチを取りだすと俺の肩や濡れた髪をそれで拭いた。 俺はそんな彼女の手首を掴むと自分の胸に引き寄せていた。 そして、彼女に言った。 「じゃあ俺の冷たくなった体を、あなたのぬくもりで暖めてよ・・・。」 急にそんなこと言ったので、リリカは慌てているみたいだった。 「とにかく中で話しましょう。」 俺の腕から逃げるみたいに鍵を取りだすと、それをドアの鍵穴に差し込もうとした。 でも、少しだけ手が震えているみたいでなかなかうまくいかなかった。 俺はその夜、彼女の部屋で一晩過ごした。 ソファに並んで座って、いろんな話をした。 子供の頃のこと、彼女が初めて好きになった男の子のこと、俺の兄弟の話、飼っていた犬のこと、今まであまり話したことのなかった思い出のような話を飽きることもなく話し続けた。 一番知りたかったことは、とうとう聞けなかったけれど、そのうち彼女が話してくれるまでそれは俺の胸の中にしまっておこうときめた。 そうやって過ごしているうちにリリカは嬉しくなったのか、俺の頬にキスしてきた。 俺もお返しに彼女のくちびるに軽くキスした。 深夜の空気がそうさせるのか、なんだかおかしくなってふたりして声をあげて笑っていた。 しばらくじゃれあうように、抱き合ったりキスしたりしていた。 そして、夜が深まるほどに俺たちはお互いの心とからだを強く真剣に求めあうようになっていった。 その日からリリカの髪のひとすじが・・・俺の地平線となり、胸のふくらみが沈む夕日になった。 彼女がいなければ、昼も夜もなかった。 ディランは言った・・・“きみの愛がなければ、ぼくはどこにもいられない”。 * 夢の中にいるのかと思った。 エレーベーターを降りると、寒そうな滝沢くんが目の前に立っていた。 胸の鼓動が騒ぎ始めて、おとなしくなってくれない。 手が震えて部屋の鍵さえもうまく開けられなかった。 そして、それを彼に悟られてしまった。 彼は昨夜、この部屋にずっといた。 そして私を一晩中抱きしめてくれた。 不思議だった。 こうなるなんて思いもしなかったけれどあれから一年が過ぎようとしていた。 お互いに‘好き’とか‘愛している’とか一言も言わなかったけれど、私たちは体中でそれを伝えあった。 私は心から笑ったし、幸せで涙がこぼれた。 朝、不思議な音色で目が覚めた。 ベッドからやっとの思いで這いだすと、もう彼は起きていて、驚いたことにリビングのピアノの前に座っていた。 そして、鍵をかけていたはずの鍵盤の蓋は開けられていて、彼はおぼつかない手付きでそれを弾きはじめた。 「どうして?鍵がかかっていたはずなのに・・・。」 そう私が言うと、彼は小さな鍵を見せてこう言った。 「ディランがこれを俺にくれたんだ。リリカの心の鍵だよって。」 よく分からないけれど、涙が頬を伝ってこぼれた。 そして、私は彼の横に立つと、昔、龍一がよく弾いていたあのジャズのフレーズを弾いてみた。 忘れていたと思っていたのに、なぜだか手が覚えていた。 滝沢くんは私の真似をしてそれを一生懸命弾こうとした。 彼はその日は仕事がないからと言って、私の部屋で一日中ピアノを弾いていた。 龍一のフレーズもすぐに弾けるようになっていた。 食事をしてはピアノを弾き、話をしてはピアノを弾き続けた。 そのピアノの音色を聞きながら、私は心の中でもう顔も思いだせない龍一に向かって‘ありがとう’って呟いた。 龍一が私に詩を書くことを勧めてくれなければ、あの詩集もこの世には存在しなかった。 そして、滝沢くんがあの詩集を見なければ、私たちは出会ってはいなかっただろう。 龍一が私たちふたりを引き合わせてくれたのかもしれないと思った。 龍一とのこともやっと素敵な思い出にできそうだった。 夜遅く、滝沢くんは車で帰っていった。 いつものようにいつ会えるか分からないけれど、会いたいって言えばいつでも飛んでくるって彼は言った。 そして、いつか私の詩に曲をつけてくれるって約束してくれた。 私はその晩、彼が帰ってからひとりパソコンの前に座っていた。 三年ぶりに詩が作れそうな気がした。 うまく出来たら彼にメールしよう、生まれ変わった私の最初の作品を・・・。
ピアニストの恋人
朝 陽のあたる部屋で 君はピアノを弾く 眠たそうなジャズのメロディ 陽炎みたいに ゆらゆら 君は時々 アイスクリームの笑い顔 私はとろけそうな呼吸を繰り返す 大好きなアイスクリーム 食べたいな 今日は ピアニストの恋人 THE END
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